「隠岐騒動」の版間の差分

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==騒動のその後==
隠岐住民達4月1日、中西毅男その後[[明治政府]]から隠岐が天朝領であることの確認と自治政府の認定を受けようと京都へ使いを送向かったが、明治政府は隠岐を[[松江藩]]の領地とすると決定していた為、自治政府は正式思うよう承認を受けられ回答がかっいまま時が過ぎた。
 
閏4月27日、[[太政官]]から隠岐支配内示を受けた松江藩・第10代藩主[[松平定安]]が派遣した兵が隠岐に兵を送り上陸、松江藩一時陣屋を奪取する還した、島民側に同情的な[[薩摩藩]][[長州藩]]が反対し、[[鳥取藩]]仲介のもとし5月16日に松江藩兵は撤退した為地元住たちのによる自治政府再度一時復活した。これを受け明治政府は一時隠岐をものの、[[明治元年]]11月に鳥取藩]]の管理下預け置かれこととなり自治は実上終了、翌年2月に民兵組織も解体された。
 
[[明治4年]]、島民と松江藩双方の騒動に関係した者が罰せられ、一連の騒動は収束した。
 
==関連項目==
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