「蔵前国技館」の版間の差分

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[[1941年]]([[昭和]]16年)に購入していた[[日本相撲協会]]の土地に戦後、[[大日本帝国海軍|海軍]][[戦闘機]]組立工場の鉄骨の払い下げを受けて仮設される。収容人員は約11,000人。2階建てで、1階は溜まり席と[[枡席]]、2階は椅子席と貴賓席が設けられていた。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により両国国技館が[[接収]]され、相撲興行が出来なくなった相撲協会は、[[明治神宮外苑]]の野天相撲や[[日本橋浜町|浜町]]の仮設国技館<!--(当時は'''假設國技館'''と書いた)-->などで興行を続けていたが、本格的な興行場所を求めて蔵前に[[1949年]](昭和24年)10月23日の[[地鎮祭]]より建設を開始、翌年「仮設」のまま蔵前国技館として開館した。
 
蔵前国技館が正式に完成したのは[[1954年]](昭和29年)9月である。[[1952年]](昭和27年)9月場所直前の9月19日、[[享保]]年間より250年にわたって続いてきた四本柱を撤廃、この場所より吊り天井となり4色(青、白、赤、黒)の房がぶらさげられるようになった。この時は吊り天井に屋根は無く[http://doraku.asahi.com/earth/showa/img/090609_3_img_02.jpg]、翌[[1953年]](昭和28年)5月場所からは[[神明造]]の屋根(四本柱時代の[[1931年]](昭和6年)5月場所より[[入母屋造]]の屋根から改められた)付きの吊り天井となった。これで土俵の雰囲気が変わるのはやむを得なかったが、勝負は見やすくなった。四本柱撤廃と同時期に[[1909年]]([[明治]]42年)1月の[[回向院]]以来、43年間にわたって本場所では絶えていた力士[[幟]][http://www.tokyo-engine.co.jp/blog/images/20090902_0.jpg]が[[1952年]](昭和27年)1月場所より復活、国技館の前は相撲情緒が大いに盛り上がった。またこの場所より[[弓取式]]を連日、結びの一番後に行うことになった。
 
開館式(1954年9月18日)では、[[千代の山雅信]]と[[鏡里喜代治]]の両[[横綱]]が[[三段構え]]を行った。[[1971年]](昭和46年)1月の改修落成記念式でも、[[玉の海正洋]]と[[北の富士勝昭]]の両横綱がこれを行っている。