「三職推任問題」の版間の差分

(→‎解釈を巡る論争: 織田信長#朝廷政策より一部転載(「織田信長」の可読性向上のための作業))
{{See|織田信長#朝廷政策}}
信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。[[谷口克広]]は、各説を以下のように分類している<ref>以降、出典:谷口克広 『検証本能寺の変』 138-139頁、ISBN 978-4642056328</ref>。
* 対立説…[[秋田弘毅]]、[[朝尾直弘]]、[[池亨]]、[[今谷明]]、[[奥野高廣]]、[[立花京子]]、[[藤木久志]]、[[藤田達生]]
* 融和説…[[桐野作人]]、谷口克広、[[橋本政宣]]、[[堀新]]、[[三鬼清一郎]]、[[山本博文]]、[[脇田修]]
 
 
 
===発言者の特定と立花説===
従来伝承されていた『晴豊公記』は、天正10年4月分から同年9月分が欠けていたが、[[1968年]]([[昭和]]43年)[[岩沢愿彦]]が[[内閣文庫]](現[[国立公文書館]])にあった『天正十年夏記』が『晴豊公記』断簡であることを発表した<ref>[[岩沢愿彦]]「本能寺の変拾遺」(『[[歴史地理]]』第91巻第4号所収)1968年、『織田政権の研究 戦国大名論集17』吉川弘文館 1985年 収録</ref>。岩沢の解釈では、「[[太政大臣]]、[[関白]]、[[征夷大将軍|将軍]]の三職いずれかに推任するのがよい」と言った主体を([[正親町天皇]]の意向を受けた)晴豊としており、以後もこの解釈を受け、信長はこの天皇の意向を突っぱねたとする説が通説化していた。
 
ところが、歴史研究家の[[立花京子]]が晴豊の日記全体の「被申候」使用例を分析した結果、村井貞勝の言葉と解釈<ref>立花京子「信長への三職推任について」(『[[歴史評論]]』497号所収)1991年、『信長権力と朝廷』岩田書院 2000年 ISBN 487294187X 収録</ref>し、独断専行を嫌う信長に無断で貞勝が発言するはずがないとし、信長の将軍任官の意向を踏まえたものであったと主張したことにより、歴史学者の間で賛否両論の論争となった。また立花説では、5月4日付けの記事にある「将軍になるべき」との晴豊の言葉を朝廷公式の意向であったとし、「御らん」([[森成利|森蘭丸]])を派遣した信長の意図を真意を隠しわざと当惑して見せたものとする。立花はこの解釈に基づき、三職推任を信長の勝利と位置づけ、朝廷が拒めなかったものとした。
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