「行友李風」の版間の差分

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「国定忠治」は古くから小説や芝居で取り上げられていたが、この行友版が "赤城の山も今宵をかぎり" の名台詞で有名な赤城天神山の場面などの沢田演出で新国劇の極め付きとなり、また「[[月形半平太]]」は[[土佐藩]]士 [[武市半平太]]をモデルにしたオリジナル作品で "月様、雨が…" "春雨じゃ、濡れて行こう" というこれまた名台詞により新国劇の看板演目となった。また[[牧野省三]]と組んで[[チャンバラ映画]]にも使われ一世を風靡、人気劇作家としての地位を築く。
 
昭和4年([[1929年]])沢田が早逝。以降新国劇は[[島田正吾]]、[[辰巳柳太郎]]の二枚看板でますます人気を博すが、行友は一人息子を早く亡くすという不幸にも見舞われ後年は失速。娯楽性の高い作品を得意としたが、芸術性の高い作品を劇団内からも望まれ、もともと金銭欲も名誉欲もなく、更に身内の不幸も重なりで、除除に俗世間から距離を置き、老妻と2人ひっそりと暮らすようになるした。亡くなった時には大衆はおろか、新国劇内でも忘れられた作家となっていた。
 
新国劇は昭和59年([[1984年]])倒産。倒産直前まで「国定忠治」は演じられた。