「岡田時彦」の版間の差分

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[[1931年]]9月、28歳のとき、当時の松竹の人気俳優、[[鈴木傳明]]、[[高田稔]]らとともに退社し、[[不二映画社]]およびその撮影所「不二スタジオ」を[[豊島園]]に設立、阿部豊監督の作品に主演するが、1年足らずでまもなく解散。また私生活では宝塚を[[1932年]]限りで退団した田鶴と正式結婚、翌1933年には鞠子(岡田茉莉子)が出生した。
 
[[1933年]]、京都に舞い戻り、かつて大活同期の内田吐夢が発掘した[[俳優|女優]]入江たか子の「[[入江ぷろだくしょん]]」、かつて不二映画社の作品を配給した[[新興キネマ|新興キネマ京都太秦撮影所]]([[帝国キネマ|帝国キネマ太秦撮影所]]の後身)に入社し、溝口健二監督の『[[瀧の白糸]]』、『祇園祭』に出演し、[[村田実]]監督の『青春街』に出演したのを最後に結核の悪化によりスクリーンより遠ざかり、翌[[1934年]][[1月16日]]、31歳の誕生日([[2月18日]])目前に息を引き取った。30歳没。
 
時彦逝去時、娘の茉莉子はまだ満1歳を迎えたばかりで父の記憶はなかった。以後茉莉子は田鶴が女手ひとつで育て上げた。