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== 生涯 ==
第一子の宗盛の誕生年より、[[久安]]元年頃、清盛の後妻として迎えられたと推測されている。[[平治の乱]]後、[[二条天皇]]の[[乳母]]となり、[[永暦]]元年([[1160年]])12月24日、八十島典侍の賞により<ref>『山槐記』同年12月15日条に清盛女が八十島典侍として下向した記事があるが、八十島典侍は天皇の乳母が勤めるものであり、清盛女は清盛室の誤りであるとされている([[五味文彦]])。</ref>従三位に叙された(『[[山槐記]]』同日条)。時子が二条の乳母となり、清盛が乳父となったことは、[[信西]]の地位の継承の狙い<ref>五味文彦『平清盛』吉川弘文館、1999年</ref>とともに、[[後白河天皇|後白河院]]と二条の対立の中で、二条への従属と政治的奉仕の姿勢を示すもの<ref>[[元木泰雄]]『平清盛の闘いー幻の中世国家』角川書店、2001年</ref>とされている。二条の死去後、後白河の寵妃となった異母妹滋子とともに、清盛と後白河の政治的提携の強化の媒介となり、[[永万]]2年([[1166年]])10月10日、滋子の生んだ憲仁親王(後の[[高倉天皇]])が[[立太子]]すると、同年10月21日従二位に叙せられた(『[[兵範記]]』同日条)<ref>同日滋子も従三位に叙せられている。清盛は東宮大夫であった。なお従来、[[永井路子]]や村井康彦により、時子の従二位は娘徳子の入内によるものとされてきた。</ref>。[[仁安]]3年([[1168年]])清盛とともに出家し、清盛が福原へ遷ると、[[西八条第]]を継承し、八条櫛笥亭(八条二品亭)と名称を改めている。[[承安 (日本)|承安]]元年([[1171年]])、徳子が高倉に入内すると、[[中宮]]の母として徳子の出産のみならず、高倉の諸皇子女の出生、成長儀式にも深くかかわり、清盛一門と王家との関係を結ぶ役割も果たした。清盛はその死に先立ち、宗盛を後継者とする意志を強く見せ、[[平重盛|重盛]]流の小松家が嫡流からはずれるとともに、時子の出自が嫡流として継承されることになった。清盛亡き後は、時子は宗盛、建礼門院徳子の母として家長たる存在となり、一門の精神的支柱として重きをなした。[[壇ノ浦の戦い]]で一門が[[源氏]]軍に最終的な敗北を喫した際、外孫に当たる[[安徳天皇]]を抱き、「浪の下にも都の候ぞ」(『[[平家物語]]』)と言い聞かせ、海中に身を投じて自殺した。
なお、『[[吾妻鏡]]』では時子は[[天叢雲剣|宝剣]]を持ち、安徳天皇は[[按察局]]が抱いて入水したとあり、按察使局は引き上げられて助かっている。『[[愚管抄]]』では、時子が安徳天皇を抱き、宝剣と[[神爾]]を具して入水したとされている。
墓所は[[赤間神宮]]にあり、毎年5月2日に[[平家の落人]]の子孫らで組織される[[全国平家会]]の参列のもと一門追悼祭が齋行されている。また[[山口県]][[長門市]]日置には、亡骸が打ち上げられたという伝承から、「二位の浜」と呼ばれる浜辺があり、海水浴場としても人気がある。
==脚注==
<references />
==参考文献==
金 永「平時子論」『文学』第3巻第4号、岩波書店、2002年
== 関連項目 ==
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