削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
9行目:
[[322年]]、明帝が即位すると、[[皇太子]]時代から親しかった庾亮を[[中書令|中書監]]に任命しようとしたが、庾亮は表を奉り、これを固辞した。この時の文章は『[[文心雕龍]]』で名文として高く評価され、『[[文選 (書物)|文選]]』にも「中書'''令'''を譲る表」(「令」は「監」の誤りか)として収録されている。
 
[[325年]] 、明帝の臨終の際、東晋建国の重臣である[[司徒]]の[[王導]]とともにその遺詔を受け、中書令として甥の[[成帝 (東晋)|成帝]]を補佐することになる。幼少の成帝の外戚として当時の権勢は王導を凌ぎ、寛大な融和政策をとる王導とは対照的に、庾亮は皇帝の権力強化のため、厳格な[[法治主義]]政策をとるなどして辣腕をふるった。
 
しかし、庾亮の厳格な政治方針は、朝廷の人々の反感を買うことも多かった。明帝が死去し、遺詔により重臣たちに褒賞・昇進の沙汰があったとき、[[陶侃]]と[[祖約]]がその選からはずされており、彼らはこれを庾亮の仕業と思い怨みを抱いたという。さらに尚書令の[[卞壺]]や友人の[[温キョウ|温嶠]]をはじめ、朝廷内外あげての反対や慎重論があったにもかかわらず、王敦の乱平定に功績のあった[[蘇峻]]の軍事力を削ぐため、彼を首都建康に召還しようとして失敗、[[327年]]、逆に蘇峻が前述の祖約と結託して反乱を起こし(蘇峻の乱)、建康が占領され、成帝が幽閉されるという事態を招いてしまった。
 
反乱軍に敗れた庾亮は弟の[[ユ翼|庾翼]]らとともに[[石頭城]]を脱出し、平南将軍・[[江州]][[刺史]]の温嶠のもとに逃れた。反乱鎮圧のため、庾亮は温嶠の勧めに従い、当時[[武昌]]に鎮し、強大な軍事力を擁していた征西大将軍・[[荊州]]刺史の陶侃に救援を要請する。当初陶侃は前述の経緯で庾亮に対して深い怨みを抱いていたが、庾亮は会見するや、その美貌と優美な立ち居振る舞いで彼を魅了し、さらに宴席の場において、[[ニラ]]の根本を「植えればまた生えてくる」という理由で残すなど、倹約家であった陶侃を感心させた。
 
これらのことから、一転して庾亮に好意を抱くようになった陶侃は、息子の陶瞻が蘇峻に殺されたこともあって、彼と共に反乱鎮圧に協力することを応諾、これによって庾亮は蘇峻のよる石頭城に逆襲をかけ、[[329年]]、ついに反乱を平定することに成功した。
21行目:
また、当時[[後趙]]の[[石勒]]が死去したことから、これを中原および蜀を回復する好機として、鎮を[[襄陽市|襄陽]]に移すことを上奏したが、[[339年]]、北伐の拠点となる邾城が後趙によって陥落したため、この計画は頓挫した。庾亮は責任をとって自ら位を三等落とし、安西将軍に降格することを上奏する。北伐計画の挫折に落胆した庾亮は、憂いから病を発してしまう。
 
同年、王導が死去すると、司徒・[[揚州]]刺史・[[録尚書事]]として朝廷に召還される詔勅を受けたが固辞、翌340年に死去した。死後[[太尉]]を追贈され、文康公と[[謚]]された。西府軍団は庾翼が引き継いだが、[[345年]]に庾翼が亡くなると西府軍団は[[桓温]]に受け継がれた。
 
== 伝記資料 ==