「関東郡代」の版間の差分

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[[徳川家康]]の関東入府の際に[[伊奈忠次]]を関東の[[代官頭]]に任じたことに始まり、その後12代200年間に渡って[[伊奈氏]]が関東代官の地位を世襲した。1692年(元禄5年)[[飛騨高山藩]]領地が[[天領]]となった際には6代[[伊奈忠篤|忠篤]]が[[飛騨郡代]]も一時的に兼務した。また、享保年間には鷹場支配と公金貸付を中心とした「掛御用向」の地位に就いた。
 
本来、関東代官は[[勘定奉行]]の支配下にあったが、[[1733年]]([[享保]]18年)8代[[伊奈忠逵|忠逵]]の代には[[勘定吟味役]]を兼任しており、関東代官は[[老中]]の直属支配下に入ることになる。更に12代[[伊奈忠尊|忠尊]]の[[1785年]]([[天明]]5年)には奥向御用兼帯となり、その2年後には小姓組番頭格となるなど、他の郡代・代官とは別格の地位を築いた。伊奈氏の「関東郡代」自称もこうした特殊な地位が背景にあったと考えられている。ところが、直後に伊奈氏の当主の地位を巡るがお[[御家騒動]]が発生、讒言によって[[1792年]]([[寛政]]4年)3月に伊奈忠尊は関東代官を罷免、改易されてしまった。
 
=== 寛政-文化期の「関東郡代」 ===