「クィントゥス・ファビウス・マクシムス」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録) m r2.7.1) (ロボットによる 追加: sr:Квинт Фабије Максим |
編集の要約なし |
||
1行目:
{{redirect|クィントゥス・ファビウス・マクシムス}}
[[ファイル:N26FabiusCunctator.jpg|200px|thumb|right|クィントゥス・ファビウス・マクシムス像]]
'''クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコスス・クンクタートル'''
よく知られた二つ名の'''クンクタートル'''
== 生涯 ==
===第二次ポエニ戦争===
クィントゥス・ファビウス・マクシムスは、[[パトリキ]]の中でも名門の[[ファビウス氏族]]に生まれた。[[第一次ポエニ戦争]]に参加したが、この時の彼の詳しい動きは伝わっていない。戦後、彼は政治家として頭角を現し始めた。第二次ポエニ戦争以前に、[[執政官]]を
[[紀元前219年]]、[[カルタゴ]]の将軍[[ハンニバル]]が、ローマの同盟相手である[[サグントゥム]]を攻撃した。サグントゥムからの救援要請を受けたローマは、カルタゴへ攻撃停止を求める使節を派遣、ファビウスはこれに加わった。カルタゴがローマの要求を拒否し、さらにサグントゥムが陥落したとの一報を受け取ると、ファビウスは使節団を代表してカルタゴへ宣戦を布告した。[[第二次ポエニ戦争]]の開幕である。ローマに帰還したファビウスは、[[紀元前217年]]の[[トラシメヌス湖畔の戦い]]によるローマ軍の大敗を受け、事態収拾のために[[元老院]]によって[[独裁官]]に任命された。通常は執政官による任命という手続きをとるので、これは異例のことだった。
ファビウスは、ハンニバルに率いられたカルタゴ軍の強さを理解し、これに正面から決戦を挑むのは無謀だと考えていた。そこで彼は、カルタゴ軍が根拠地から遠く離れており、[[兵站]]に弱点を抱えていることに目をつけた。補給を略奪に頼り、後方からの増援も期待できないカルタゴ軍は、ローマが消耗戦を強いれば、遠からず戦力を衰弱させていくと考えたのである。そこでファビウスは、カルタゴ軍の進軍を無理に阻止しようとせず、影のようにその後を追尾し、消耗するのを待った。さらに、カルタゴ軍の予想進軍路上の土地は、略奪を防ぐために事前に焦土化した。このようにして敵の消耗を待つ持久戦略は、後に'''
===クンクタトル===
しかし、ファビウスのこうした持久戦略は多くの批判を招いた。焦土化される土地の人々はもちろんのこと、政敵である[[マギステル・エクィトゥム]]の[[マルクス・ミヌキウス・ルフス]]や、ローマの元老院まで彼の消極的姿勢を非難した。'''クンクタートル'''(のろま)というあだ名を付けられたのはこの時である。さらにファビウスは、[[カンパニア]]から北へ向かうカルタゴ軍を途上で攻撃しようとするも、捕捉に失敗するという過ちを犯した。ファビウスはローマへ召還され、ミヌキウスが一時的に軍の指揮を執ることになった。
ミヌキウスはファビウスの戦略を無視し、さっそくカルタゴ軍に攻撃を仕掛け、少なからぬ戦果を上げた。これによって彼は元老院や民衆から賞賛され、ファビウスが軍に復帰してからも、そうした支持を背景に軍の指揮権を要求するようになった。やむなくファビウスは軍の一部を分割し、ミヌキウスに指揮を委ねた。
その後、ラリヌム (Larinum) と呼ばれる町(現
===ローマの盾===
29行目:
== 関連項目 ==
* [[フェビアン協会]] - 19世紀[[イギリス]]の[[社会主義]]運動。ファビウスの名に由来している。
* [[マクシミリアン]]
== 関連リンク ==
|