「長谷部忠」の版間の差分

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[[熊本県]]出身。[[早稲田大学]][[政経学部]]を卒業して[[1926年]]朝日新聞社に入社。[[緒方竹虎]][[主筆]]が社内権力基盤のひとつとしていた政治部次長、調査部長兼論説委員、政経部長、報道局部長兼論説委員、報道第一部長と歴任して敗戦を迎え、親緒方派と[[村山長挙]]社長ら反緒方派の対立が再燃すると、東京本社編集局次長から[[1946年]]4月、緒方や[[代表取締役]][[野村秀雄]]らの後押しで局長職を飛び越して[[取締役]]・東京本社代表兼論説委員室主幹、[[1947年]]6月にまず代表権のない[[会長]]となり、村山長挙・[[上野精一]]両社主が[[公職追放]]となった同年11月に代表取締役、[[1949年]]11月に社長に就任した。しかし[[1951年]]に両社主の追放が解除されると、同年11月村山長挙が会長に就任し、社長の座を追われて顧問となった(村山「復辟」という)。村山会長は、東京本社編集局長[[信夫韓一郎]](長谷部の1年先輩)を、編集局長のまま長谷部に替わる代表取締役に起用した(信夫「執権」という)。社長退任後は、第5次[[選挙制度調査会]]副会長兼運営委員長や、[[美濃部亮吉]][[東京都]][[都道府県知事|知事]]のブレーンである都行財政臨時調査会長などを務めた。
 
長谷部は、朝日新聞社の会長に就任した1947年6月に、日常の新聞編集の実務から一歩はなれたかたちで、それを支える基礎的、包括的な調査、研究を行う調査研究室を設置した。
 
1981年11月1日、80歳で死去。
 
==参考文献==