「反文学論」の版間の差分

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『価値について』という章の中では、「[[エジソン]]は[[フランス]]に生まれていたら[[詩人]]になっていたはずだ」という[[エリック・ホッファー]]の言葉を引きながら、日本文学の[[小説]]中心主義への疑問を投げかけている。[[スポーツ新聞]]が当時実質的には[[野球]]の新聞であるのと同様に、[[文芸誌]]は実質的には(文学の様式には他に[[詩]]や[[戯曲]]などがあるのに)小説の雑誌になってしまっているとし、[[梶井基次郎]]の作品がなぜ詩とみなされず小説とみなされるのかという疑問を呈し、[[劇作家]]としての資質に恵まれながら小説に価値を置く社会に生まれてしまった[[三島由紀夫]]に同情する。
 
柄谷の、「小説に価値を置く近代」への懐疑・吟味は、本書以外でも見受けられる。「[[唐十郎]]の劇と小説」という批評文のなかで「私は小説が嫌いだ。小説が自明であるような近代の認識論的布置が嫌いで、それを切り裂きたい」などと宣言したこと<ref>「差異としての場所」所収(講談社学術文庫)</ref>もあったし、『[[新現実]]』という雑誌での[[大塚英志]]との対談でも、「自分の[[文芸批評]]は小説に価値を置く[[近代]]への批判であったが、小説が没落したからやる意味がなくなった」と語っている<ref>『新現実』誌を見よ</ref>。
 
===言語論===