「李元翼」の版間の差分

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1569年(宣祖2年)に科挙に及第して承文院に入り、[[柳成龍]]と知り合う。1573年(宣祖6年)成均典籍に異動し聖節賀正官になり、明への使節である賀使権徳輿に従って明に使いした。その後、礼曹郎、黄海都事を歴任し、1576年(宣祖9年)に[[李珥]]の推薦で正貢となる。1578年(宣祖11年)玉堂に入り、1583年(宣祖16年)承旨となるが、王子師伝河洛上疏事件により辞任。1587年(宣祖20年)安州守となる。更に刑曹参判から1591年(宣祖24年)には大司憲となる。
 
1592年(宣祖25年)に[[文禄・慶長の役]]が起こると吏曹判書と平安道都巡察使を兼ね、先行して敗れたのち定州で兵を募った。正憲を加えられ、観察使となって大同江以西の地を守る。87月には明から来援した[[祖承訓]]が[[小西行長]]の守る平壌城を攻撃し、共にこれを攻めるが敗退した。
 
翌1593年(宣祖26年)1月に明の総兵官である[[李如松]]の平壌城攻撃に参加して平壌城を回復した。2月にはこの功績により崇政大夫(従一品)を加えられた。1595年(宣祖28年)、[[李恒福]]の後任として右議政となり四道都体察使を兼ね。嶺南に布陣して日本軍への対応に当たると共に食料調達などの明軍支援を実施した。8月に綱紀の乱れを正すために部下を処罰した全羅道兵馬節度使の[[李福男]]を讒言により革職して笞刑に処し、後任に[[朴晋]]を任じた。(その後、李福男は[[南原の戦い]]で戦死)
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