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'''肝付 兼篤'''(きもつき かねあつ、[[永禄]]5年([[1562年]]) - [[慶長]]14年([[1609年]]))は、[[ ()|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[薩摩藩]](鹿児島藩)家臣、喜入肝付家当主。
 
父は[[肝付兼盛]]。母は[[菱刈重根]]の娘。兄は[[肝付兼寛]]。子は[[肝付兼武]]。幼名狩之介。通称伴兵衛。官位は越前守。初名兼仍。
 
== 略歴 ==
永禄5年(1562年)肝付兼盛の子として生まれる。[[天正]]18年([[1590年]])兄兼寛が嗣子のないまま没し、肝付家の家督は、島津家重臣[[伊集院忠棟]]の強い求めで、忠棟の三男[[肝付兼三|兼三]]が相続することとなる。
 
肝付家の家督は、島津家重臣[[伊集院忠棟]]の強い求めで、忠棟の三男兼三が相続することとなる。
[[慶長]]4年([[1599年]])当主兼三が、実父忠棟の誅殺事件により、肝付家を離れたことで、親族間の相談により、先々代兼盛の実子兼篤を相続者と決定し、主君[[島津義久|義久]]の許しと[[島津義弘|義弘]]、[[島津忠恒|忠恒]]の同意を得て家督相続した。
同年忠棟の嫡男[[伊集院忠真]]が[[庄内の乱]]を起すと、義弘、忠恒の命で討伐の軍に加わる。
親族間の相談により、先々代兼盛の実子兼篤を相続者と決定し、主君[[島津義久|義久]]の許しと[[島津義弘|義弘]]、[[島津忠恒|忠恒]]の同意を得て家督相続した。
 
同年忠棟の嫡男伊集院忠真が[[庄内の乱]]を起すと、義弘、忠恒の命で討伐の軍に加わる。
慶長10年([[1605年]])家中で従兄弟[[肝付兼秋|兼秋]][[肝付兼堯|兼堯]]兄弟(叔父[[肝付兼有]]の子)による肝付家の家督相続を狙った陰謀が露見し、それを収める。
 
慶長14年([[1609年]])主君家久の[[琉球]]出兵に従い出陣する。琉球からの帰国後、病により同年6月29日没。享年48。
 
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[[Category:肝付氏|かねあつ]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:1562年生]]
[[Category:1609年没]]