「甲越同盟」の版間の差分

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同盟交渉に際して武田方では主に親族・家老層であり、信越国境に配置された武田信豊や[[春日虎綱]](高坂昌信)・[[春日信達|信達]]親子のほか譜代家老の[[小山田信茂]]、勝頼側近である[[跡部勝資]]や[[長坂光堅]]、越後に居住した[[長井昌秀]]らが取次に携わっており、甲越同盟に際した外交取次は武田家中において家格の高い武田信豊ら一門と当主側近の組み合わせになっている点が指摘され、儀礼面を一門、実務面を当主側近が分担して担当していたと考えられている(丸島 2000)。
 
なお、甲越同盟締結に関する武田氏側発給文書は[[上杉家文書]]に多く残されているが、上杉側の発給文書は武田氏の家伝文書が散逸しているため残存数が少なく、上杉側の取次に関しては不明な点が多いが、上杉側から正式な使者の派遣以降の武田氏側から発給された書状は、景勝宛以外はすべて[[新発田長敦]]、[[竹俣慶綱]]、[[藤朝信]]のいずれか、あるいは三名宛となっており、当時景勝政権中枢を担っていたこの三人が武田氏との交渉の取次を務めていたことが指摘される。<ref>片桐昭彦「上杉景勝の権力確立と印判状」(初出:『新潟史学』45号、2000年/所収:『戦国期発給文書の研究』高志書院、2005年)</ref>。
 
== 甲越同盟の影響 ==
勝頼は甲越同盟・甲佐同盟を軸に天正8年4月には家臣に[[真田昌幸]]に沼田領の攻略を命じ、翌5月には沼田城を陥落させている。さらに同年10月には再び自ら東上野へ出陣し、沼田領は領国化された。一方で、天正8年に上杉景勝は勝頼に対し越中への出兵要請を行い、勝頼は外交使僧を派遣している。甲越同盟は一定の[[軍事同盟]]として機能しているものの上杉方の領国・家中の不安定さもあり十分に機能していないことが指摘される。一方で勝頼は織田信長との和睦を試みており([[甲江和与]])、信長との和睦には織田氏との外交関係があった[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]が仲介しており、上杉景勝は勝頼に対し信長との和睦に懸念を示している。
 
甲江和与は一定の進捗を見せたものの、天正10年(1582年)には織田・徳川連合軍と後北条氏による本格的な甲斐侵攻が開始され、これに対して上杉氏では勝頼の要請を受け援軍を派遣させるも、[[新発田重家]]の反乱などで余裕がなかったため十分にを進めることができず、同年に武田氏は滅亡する。さらに同年末には本能寺の変により信長が上方で横死し、空白地帯となった武田遺領を巡り上杉氏と徳川氏・後北条氏の間で[[天正壬午の乱]]が発生する。上杉氏は市河氏ら北信地域の武田遺臣の一部を庇護し北信の旧武田領の一部を接収するが、信濃・甲斐は徳川氏が掌握する。
 
その後、上杉氏は豊臣政権に服属し、関ヶ原の戦いを経て近世大名として存続している。
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