編集の要約なし
m (→東部戦線の立場と援助) |
編集の要約なし |
||
[[file:Bundesarchiv Bild 101I-141-1258-15, Russland-Mitte, Soldaten der französischen Legion, Fahne.jpg|thumb|ドイツ軍とともにソビエトに進撃したフランス義勇兵(1941年)]]
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-206-35, Schlacht um Kursk, Panzer VI (Tiger I).jpg|thumb|right|史上最大の戦車戦となった[[クルスクの戦い]]]]
'''独ソ戦'''(どく
大戦
== 概説 ==
1939年に締結したモロトフ=リッベントロップ協定いわゆる'''[[独ソ不可侵条約]]'''の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。[[ロシア革命|共産主義革命]]を起こしたソ連は[[国際連盟]]に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、[[ナチス・ドイツ|ナチス党政権下のドイツ]]は反共の急先鋒であったから
ドイツがポーランドと戦争を始めるとソ連は、モロトフ=リッベントロップ協定の[[独ソ不可侵条約#秘密議定書|秘密議定書]]に基づき[[緩衝地帯]]の分割を進めた。1939年9月の[[ポーランド侵攻|ポーランド分割]]によって、ドイツとソ連は国境を接することとなった。
もとより、信頼しあうわけでもない両列強が国境を接する状況において、もはや開戦は時間の問題となっていった。
[[アドルフ・ヒトラー]]はソ連との戦争は時間の問題であり[[ヨシフ・スターリン]]がドイツに対する戦争準備をしていると考えていた。石油資源を欲したドイツにおいては、ルーマニアの油田をソ連の手から防衛するためという理由もあった。また、当時イギリスはソ連と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の参戦をあてにしていたため、ヒトラーはソ連を倒せばイギリスが講和してくると考えた。
ドイツとソ連、そしてイギリス・アメリカという
[[1941年]][[6月22日]]3時15分、ドイツ軍は作戦名「[[バルバロッサ作戦|バルバロッサ]]」の下にソ連を奇襲攻撃した。イギリス・フランスとの戦争は
開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かった[[バルト三国|バルト]]地方や、過酷な共産党の政策から[[ウクライナ]]の住民は、規律
近代戦という破壊的な兵器の登場の上に、他民族の支配という思想・信条が加えられたこの戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1128万人
緩衝地帯の国家が枢軸・連合のどちらかに鞍替えするといった状況の中、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの支配領域と
== 経過 ==
=== 1942年 ===
前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になったのだ。1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。南部戦線にて、[[ヴォルガ川]]への到達とコーカサス地方の[[石油]]資源獲得を目的とした[[ブラウ作戦]]が発動される。作戦開始当初は快進撃が続くが、赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。▼
▲前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になったのだ。1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。南部戦線にて、[[ヴォルガ川]]への到達とコーカサス地方の[[石油]]資源獲得を目的とした[[ブラウ作戦]]が発動される。作戦開始当初は快進撃が続くが、赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅されることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。
ヴォルガ川の要衝の地における[[スターリングラード攻防戦]]において、ドイツ軍は、市街戦での消耗戦に陥る。また、コーカサスを目指した軍集団は、嶮しい山岳地帯とソ連軍の抵抗により、こちらの進撃も行きづまってしまった。冬季が訪れると11月には、再びソ連軍の反撃により枢軸軍33万人がスターリングラードに包囲されてしまった。
|