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'''楊 開慧'''(よう かいけい)は[[毛沢東]]の2番目の妻。日本留学経験を持つ学者、[[楊昌済]](1871年 - 1920年)の娘。[[号 (称号)|号]]は霞、[[字]]は雲錦
 
== 事跡 ==
楊公廟公立第四十小学、衡粋実業学校附設小学班、陰儲女子学校、稲田女子師範などで学ぶ。父の影響を受けて開明的な思想をもっていた。[[北京市|北京]]在住の17歳の時、父のもとを訪れた毛沢東と知り合う。父死後の[[1920年]]([[民国紀元|民国]]9年)1月に長沙に帰り、ミッションスクールである長沙福湘女子中学選修班に入学した。直後に毛と再会・結婚し、[[毛岸英]]・[[毛岸青]]をもうける。
日本に留学していた経験を持つ学者、[[楊昌済]](1871年 - 1920年)の娘。[[号 (称号)|号]]は霞、[[字]]は雲錦。
 
同年冬、楊開慧は中国社会主義青年団に加入した。[[1921年]](民国10年)、[[中国共産党]]湘区党委員会で機密・交通に関する連絡事務を担当する。同年冬、正式に共産党に加入した。[[1924年]](民国13年)夏、[[上海市|上海]]に赴き、女性運動に従事している。[[1925年]](民国14年)2月に毛沢東の下に戻り、毛を補佐して農民夜学の創設に取り組んだ。10月、[[広州市|広州]]に移り、女性運動に再び参加している。[[1926年]](民国15年)11月、長沙に戻る。まもなく毛沢東に随従して[[武漢市|武漢]]に移り、中央農民講習所を開き、女性運動を展開した。[[1927年]](民国16年)11月、長沙に引き返し、以後、共産党地下工作に従事している。
[[長沙市|長沙]]郊外で生まれ、父の影響を受けて開明的な思想をもっていた。[[北京市|北京]]在住の17歳の時、父のもとを訪れた毛沢東と知り合う。父の死後長沙に帰り、ミッションスクールに入学。直後に毛と再会、[[1920年]]に毛沢東と結婚し、[[毛岸英]]・[[毛岸青]]をもうける。[[ユン・チアン]]と[[ジョン・ハリディ]]の共著『[[マオ 誰も知らなかった毛沢東]]』には、「毛が党活動のため家庭を捨てた後、楊は毛への恋慕や彼の残虐な性向、[[共産主義]]に対する疑念を書いた書簡を書き残し自宅に隠した。それらは死後50年以上経った1982年に発見されたが、その一部は非公開となっている」との記述がある<ref>ただし、本書の内容の正確さについては批判的な見解が存在する点には留意が必要。同項目を参照。</ref>。
 
しかし[[1930年に居住していた長沙で]](民国19年)10月、[[中国国民革命軍]][[一系統である湘閥]](湖南軍)の指導者・[[何鍵]]により、楊開慧は毛岸英らと共に長沙で逮捕されてしまった。何からは毛との離婚と非難声明を出せば釈放するとわれたが、楊は拒絶し、つを断りに長沙城門外で銃殺された。享年30。一報を聞いた毛は「彼女の死は百身を持ったとしても贖えぬ。」と嘆息したという。毛沢東にとって革命の同志であり理想の妻であった。毛沢東は晩年に女性秘書を楊開慧と同じ髪型にさせていた。
 
=== 異説 ===
[[長沙市|長沙]]郊外で生まれ、父の影響を受けて開明的な思想をもっていた。[[北京市|北京]]在住の17歳の時、父のもとを訪れた毛沢東と知り合う。父の死後長沙に帰り、ミッションスクールに入学。直後に毛と再会、[[1920年]]に毛沢東と結婚し、[[毛岸英]]・[[毛岸青]]をもうける。[[ユン・チアン]]と[[ジョン・ハリディ]]の共著『[[マオ 誰も知らなかった毛沢東]]』には、「毛が党活動のため家庭を捨てた後、楊は毛への恋慕や彼の残虐な性向、[[共産主義]]に対する疑念を書いた書簡を書き残し自宅に隠した。それらは死後50年以上経った1982年に発見されたが、その一部は非公開となっている」との記述がある<ref>ただし、本書の内容の正確さについては批判的な見解が存在する点には留意が必要。同項目を参照。</ref>。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 徐友春主編|title = 民国人物大辞典 増訂版|year = 2007|publisher = 河北人民出版社|isbn = 978-7-202-03014-1}}</span>
 
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