「田代重右衛門」の版間の差分

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{{Infobox 人物
|氏名 = 田代 重右衛門
|ふりがな = たしろ じゅうえもん
|画像 =
|画像サイズ =
|画像説明 =
|出生名 = 田代松太郎
|生年月日 = [[1854年]][[1月2日]]
|生誕地 = [[美濃国]]([[岐阜県]])[[大野郡 (岐阜県)|大野郡]]下座倉村
|失踪年月日 =
|失踪地 =
|現況 =
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1854|1|2|1932|12|14}}
|死没地 =
|死因 =
|遺体発見 =
|墓地 =
|記念碑 =
|住居 =
|国籍 = {{JPN}}
|別名 =
|民族 = [[日本人]]
|市民権 =
|教育 =
|出身校 =
|職業 = 大日本紡績(現:[[ユニチカ]])元社長
|活動期間 =
|雇用者 =
|団体 =
|代理人 =
|著名な実績 =
|業績 =
|流派 =
|影響を受けたもの =
|影響を与えたもの =
|活動拠点 =
|給料 =
|純資産 =
|身長 =
|体重 =
|テレビ番組 =
|肩書き =
|任期 =
|前任者 =
|後任者 =
|政党 =
|政治活動 =
|敵対者 =
|取締役会 =
|宗教 =
|宗派 =
|罪名 =
|有罪判決 =
|犯罪者現況 =
|配偶者 = あり
|非婚配偶者 =
|子供 =
|親 = 田代重兵衛(父)
|親戚 =
|コールサイン =
|受賞 =
|署名 =
|署名サイズ =
|公式サイト =
|補足 =
}}
'''田代重右衛門'''(たしろ じゅうえもん、[[1854年]]([[嘉永]]7年)1月2日 - [[1932年]]([[昭和]]7年)[[12月14日]])は、日本の[[実業家]]。
 
== 生い立ち ==
嘉永7年1月2日、[[美濃国]][[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[下座倉村]]([[岐阜県]])で、父重兵衛の子として生まれる。幼名は松太郎。生家は、綿花、藍、茶商を生業とし、屋号は棉屋と称した。[[寺子屋]]で学び、11歳のころには父に従い商売にでる。明治14年28歳で大阪で綿糸商を営むが、一旦郷里にひきあげる。26年再度上阪し、尼崎紡績に入社、27年には抜擢され副支配人、34年取締役に就任した。41年東洋紡織を合併し、綿布の製造を始める。のち東京紡績、日本紡績、摂津紡績を合併し、大正7年大日本紡績(現・[[ユニチカ]])と改称した。その後、日本絹毛紡績を合併、鹿児島紡績を買収する。13年に相談役に就任。同時に[[日本貯蓄銀行]]相談役なども兼任した。
嘉永7年1月2日、[[美濃国]][[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[下座倉村]]([[岐阜県]])で、父重兵衛の子として生まれる。幼名は松太郎。生家は、綿花、藍、茶商を生業とし、屋号は棉屋と称した。[[寺子屋]]で学び、11歳のころには父に従い商売にでる。
 
嘉永7年1月2日、[[美濃国]][[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[下座倉村]]([[岐阜県]])で、父重兵衛の子として生まれる。幼名は松太郎。生家は、綿花、藍、茶商を生業とし、屋号は棉屋と称した。[[寺子屋]]で学び、11歳のころには父に従い商売にでる。明治14年28歳で大阪で綿糸商を営むが、一旦郷里にひきあげる。26年再度上阪し、尼崎紡績に入社、27年には抜擢され副支配人、34年取締役に就任した。41年東洋紡織を合併し、綿布の製造を始める。のち東京紡績、日本紡績、摂津紡績を合併し、大正7年大日本紡績(現・[[ユニチカ]])と改称した。その後、日本絹毛紡績を合併、鹿児島紡績を買収する。13年に相談役に就任。同時に[[日本貯蓄銀行]]相談役なども兼任した。
 
==関連項目==
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