「室町文化」の版間の差分

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== 戦国期の文化 ==
応仁の乱を契機として、地域が自立性を強め、それにつれて、[[地方]]の所領からの収入が途絶えて困窮する京都の公家や[[僧侶]]のなかには、戦乱で荒廃する京都を離れ、繁栄する[[地方都市]]へ下り、その地の[[大名]]や[[国人]]に頼るものがあらわれた。そのなかには、[[関白]][[一条教房]]が家領であった[[土佐国]][[幡多荘]](現在の[[高知県]][[四万十市]])に下向して、子孫が[[土佐一条氏]]として[[戦国大名]]化したという例もある。教房の父で当代随一の文化人[[一条兼良]]も[[奈良]]、つづいて[[美濃国|美濃]]に下向している。いっぽう、商工業の発展や[[郷村]]制の成立にともなって、都市の商工業者(町衆)や農民のあいだにも新しい文化がうまれていった。
 
[[画像:Ruriko-ji Temple.JPG|250px|right|thumb|「西の京」といわれた大内氏の城下町山口の[[瑠璃光寺]]五重塔]]