「カジミェシュ4世 (ポーランド王)」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== リトアニア統治 ===
1440年、[[ジーギマンタス・ケーストゥタイティス]]が[[暗殺]]されてリトアニア大公が空位になると、[[トラカイ県]]知事[[ヨナス・ゴシュタウタス]]を始めとする[[リトアニア大公国|リトアニア]]の大貴族([[マグナート]])たちジーギマンタスの息子[[ミーコラス・ジーギマンタイティス|ミーコラス]]を退けてカジミェシュを後継にすえようとしたが、ポーランド貴族階級の多くは13歳の彼にリトアニアに行かず、[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]]を兼ねるため不在の兄ヴワディスワフ3世に代わり、ポーランド副王の役割を果たすよう望んだという。
 
カジミェシュはリトアニアの大貴族達の招きで1440年、[[ヴィリニュス]]に入城し、6月29日に貴族会議においてリトアニア君主に選出された。一連の動きはポーランド貴族の不安を掻き立てながら、主にヨナス・ゴシュタウタスのお膳立てによって進んだ。これにより、個人的な紐帯によって成立していた[[ポーランド王国|ポーランド]]とリトアニアの脆弱な[[同君連合]]は解消された。カジミェシュ即位の報はポーランドでは猛反発をもって迎えられ、リトアニアには軍事的圧力までかけられた。カジミェシュが未成年のため政務はヨナスを議長とする貴族会議に委ねられ、幼い大公は宮廷の役人達にリトアニアの言語と慣習を教わった。
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1447年、兄のヴワディスワフ3世の死後3年間にわたり空位だった[[ポーランド国王|ポーランド王位]]を継承し、[[1454年]]に[[ハプスブルク家]]の[[エリーザベト・フォン・ハプスブルク|エリーザベト]]と結婚した。彼女は[[神聖ローマ皇帝]][[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]と[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王家]]及び[[ハンガリー王国|ハンガリー王家]]の女子相続人である[[エリーザベト・フォン・ルクセンブルク]]の遺児であったが、皇帝位はハプスブルク家の別系統の[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の手中にあった。この結婚は[[ヤギェウォ家]]の[[ボヘミア]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王位請求権を強化させることを狙ったものであったが、同時にカジミェシュ4世は皇帝位をめぐる争いに否応なく引き込まれることになった。
 
同年、カジミェシュ4世は[[ドイツ騎士団]]に対抗する[[プロシア連合]]との同盟を結び、併合によって[[プロイセン|プロシア]]をポーランド領に組み込むことが決まった。しかしプロシア連合がドイツ騎士団への反乱を開始すると、騎士団は予想以上に頑強な抵抗を見せ、[[十三年戦争]]に発展した。カジミェシュ4世とプロシア連合はドイツ騎士団を撃破し、その拠点[[マルボルク城]]を陥落させた。[[第二次トルンの和約]]でドイツ騎士団は、[[ポーランド王領プロシア]]に対するポーランドの[[主権]]、[[プロシア公領]]に対するポーランドの宗主権を認めるに至った。[[1457年]]に義弟のハンガリー王ボヘミア王[[ラディスラウス・ポストゥムス]]が没すると、カジミェシュ4世夫妻の関心はラディスラウスの保っていた王冠を掌中にすることへと次第に移っていった。
 
=== 東欧諸国との関係 ===
[[1469年]]、ラディスラウスの摂政でボヘミア王となっていた[[イジー・ス・ポジェブラト]]の要請により、長男のヴワディスワフがイジーの後継者に決定、2年後の[[1471年]]にイジーが亡くなった後にヴワディスワフがボヘミア王に就いた。しかし、ハンガリー王[[マーチャーシュ1世]](ラディスラウスの死後王位を継承)はイジーと対立していたためヴワディスワフと衝突、カジミェシュ4世はヴワディスワフの支援に回った。[[1490年]]にマーチャーシュ1世が子の無いまま没し、ヴワディスワフはハンガリー王位も継承(ウラースロー2世)、ヤギェウォ家の領土は大幅に増加した。
 
一方、1471年に[[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド共和国]]と同盟を結んだが、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]][[イヴァン3世]]によってノヴゴロド共和国は併合され、[[大オルダ]]の君主[[アフマド・ハーン]]との同盟のあってイヴァン3世との関係は悪化、しばしばリトアニアを侵略され、リトアニア貴族の離反も招いた。
 
1492年、64歳で死去。ボヘミア・ハンガリーはウラースロー2世が、ポーランドは3男の[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世]]が、リトアニアは4男の[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]がそれぞれ継承した。
 
== 子女 ==
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*[[ヤドヴィガ・ヤギェロンカ (1457-1502)|ヤドヴィガ]](1457年 - 1502年) - [[バイエルン大公|バイエルン=ランツフート公]][[ゲオルク (バイエルン公)|ゲオルク]]と結婚した。クラクフで代理人による結婚の交渉が行われ、1475年に[[バイエルン公国|バイエルン]]で「[[ランツフートの結婚式]]」と呼ばれる壮麗な[[ページェント]]を伴う披露宴が行われて、これが祝祭として定着した。
*[[カジミェシュ (聖人)|カジミェシュ]](1458年 - 1484年) - 神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の娘[[クニグンデ・フォン・エスターライヒ|クニグンデ]]との縁談があったが、これを断って宗教的な生活を選び、[[リトアニア]]の[[守護聖人]]となった。
*[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世オルブラフト]](1459年 - 1501年) - ポーランド王位を継承。
*[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]](1461年 - 1506年) - リトアニア大公、後にポーランド王位を継承。
*[[ゾフィア・ヤギェロンカ (1464-1512)|ゾフィア]](1464年 - 1512年) - [[アンスバッハ侯領|ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯]][[フリードリヒ2世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|フリードリヒ5世]]と結婚した。
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*[[バルバラ・ヤギェロンカ|バルバラ]](1478年 - 1534年) - [[ザクセン君主一覧|ザクセン公]][[ゲオルク (ザクセン公)|ゲオルク]]と結婚した。
*[[エルジュビェタ・ヤギェロンカ|エルジュビェタ]](1483年 - 1517年) - [[レグニツァ公国|レグニツァ]]=[[ブジェク公国|ブジェク]]公[[フリデリク2世 (レグニツァ公)|フリデリク2世]]と結婚した。
 
== 参考文献 ==
*[[伊東孝之]]・[[井内敏夫]]・[[中井和夫]]編『新版 世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』[[山川出版社]]、1998年。
*[[河野肇]]訳『ポーランドの歴史』[[創土社]]、2007年。
*[[デヴィッド・ウォーンズ]]、[[栗生澤猛夫]]監修『ロシア皇帝歴代誌』[[創元社]]、2001年。
 
== 関連項目 ==
*[[リトアニアの歴史]]
*[[ニェシャヴァ法令]]
*[[オシフィエンチム公国]]
 
{{先代次代|[[ポーランド国王|ポーランド王]]|1447年 - 1492年|[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ3世]]|[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世]]}}