「松平武聰」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
FX-V (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
8行目:
| 諡号 =
| 戒名 = 明達日俊高徳院
| 墓所 = [[東京都]][[荒川区]][[東日暮里]] [[善性寺(荒川区)|関妙山善性寺]]
| 官位 = [[従四位|従四位下]][[侍従]]、[[近衛府|右近将監]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
21行目:
}}
 
'''松平 武聰'''(まつだいら たけあきら)は、[[石見国|石見]][[浜田藩]]の第4代藩主。[[美作国|美作]][[浜田藩|鶴田藩]]主。[[越智松平家]]8代。[[水戸藩]]主・[[徳川斉昭慶喜]]の十男。は異は側室・[[山野辺義貫]]の娘兄に当たる。初名は'''昭音'''。
 
== 生涯 ==
[[天保]]13年([[1842年]])1月26日、[[水戸藩]]主[[徳川斉昭]]の十男として生まれる。幼名は'''十郎麿'''。[[徳川慶喜]]は異母兄に当たる。[[弘化]]4年([[1847年]])11月29日、先代藩主[[松平武成]]の末期養子として[[越智松平家]]を相続する。[[安政]]元年([[1854年]])12月15日、[[従四位|従四位下]][[侍従]]・[[近衛府|右近将監]]に叙任。
 
[[嘉永]]6年([[1853年]])、倹約令を出して不正を厳しく取り締まり、さらに[[高津川]]の治水工事や[[河鰭監物]]を登用して[[石見半紙]]、[[養蚕業]]などの[[殖産興業]]化を推し進めて藩財政を再建した。
 
幕末期の動乱の中では、斉昭の子で慶喜の弟であることから[[佐幕派]]に与した。[[慶応]]2年([[1866年]])の[[長州征討|第2次長州征伐]]に参加したものの、武聰は病に臥していたために指揮が執れず、[[長州藩]]の[[大村益次郎]]率いる精強な軍勢の前に[[山本半弥]]率いる藩軍は壊滅した。長州軍が浜田領に侵攻すると、7月18日に[[浜田城]]に火を放って[[豊後国]][[杵築市|杵築]]へ逃亡する。さらに[[松江市|松江]]を経て、[[鳥取市|鳥取]]に移った。浜田は長州藩の占領下に置かれたため、慶応3年([[1867年]])3月、[[飛地|飛び地]]である[[美作国]]鶴田に逃れて[[浜田藩|鶴田藩]]主となった。後に藩は2万8,000石、6万1,000石に加増される。
 
[[明治]]2年([[1869年]])6月24日、[[版籍奉還]]により鶴田藩知藩事に就任する。明治4年([[1871年]])7月15日、[[廃藩置県]]により知藩事を免職。明治6年([[1873年]])3月23日、隠居して長男武修に家督を譲る。明治15年([[1882年]])[[11月7日]]、41歳で死去。
 
{{越智松平家当主|1847- 1882年|第8代}}
{{浜田藩主|越智松平氏|4代|浜田藩主:1847- 1867,鶴田藩主:1867- 1871}}
 
{{DEFAULTSORT:まつたいら たけあきら}}
[[Category:越智松平氏|たけあきら]]
[[Category:水戸徳川氏|たけあきら]]
[[Category:江戸の大名]]
[[Category:親藩]]