「王茂 (南朝)」の版間の差分

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== 生涯 ==
数歳にして祖父・[[王深]]に才能を認められ、「吾が家の千里駒」と賞賛された。物静かで落ち着いた人柄で、むやみ無闇に交遊にふけらなかった。身長は8尺あり、容貌も色白で美しかった。[[斉 (南朝)|斉]]の[[武帝 (南朝斉)|武帝]]がまだ布衣であった頃、年少だった王茂を見て、その堂々たる様子に感嘆したという。[[宋 (南朝)|宋]]の[[昇明]]の末年、奉朝請となる。後軍行参軍・[[司空]]騎兵・[[太尉]]中兵参軍を歴任した。その後、鎮南司馬・臨湘令、越騎校尉、寧朔将軍長史、前軍将軍江夏王司馬、寧朔将軍・江夏[[内史]]などを歴任した。
 
[[495年]]、[[北魏]]が[[司州]]を包囲すると、王茂は[[郢州]]の兵を率いて救援に駆けつけ、[[蕭衍]](後の梁の武帝)とともに敵将[[王粛 (南北朝)|王粛]]らを打ち破った。しばらくして輔国長史<ref>『梁書』より。『南史』では「雍州長史」に作る。</ref>・[[襄陽市|襄陽]]太守に任じられ、蕭衍の幕下に入った。王茂が蕭衍に背こうとしていると讒言する者がいたが、蕭衍は王茂の将才を惜しみこれを退けた。[[500年]]、蕭衍が[[蕭宝巻]](東昏侯)に反乱を起こすと、王茂は蕭衍のもとに馳せ参じ、軍の先鋒となって郢州を制圧した。さらに[[曹景宗]]らとともに先鋒として[[長江]]を下り、大航で[[王珍国]]らの軍を破った。首都[[建康]]が平定されると、護軍将軍に任じられ、すぐに[[侍中]]・領軍将軍となった。この時、蕭宝巻の妃であった潘玉児は「国色」と呼ばれるほどの美貌で、蕭衍は彼女を気に入り自分のものにしようと考えたが、王茂がこれを諫めたため、結局潘玉児は殺された。蕭衍は潘玉児に次ぐ余妃を王茂に与えた。
 
[[502年]]、梁が建国されると、もとの官に鎮軍将軍を加えられ、望蔡県公に封じられた。同年、群盗が神虎門を焼き、[[衛尉]]の[[張弘策]]を殺すと、王茂は兵を率いて駆けつけ、賊を射殺した。王茂は賊の襲撃を防げなかったことを理由に自ら辞職を願い出たが、詔勅によって慰留された。[[江州]]刺史の[[陳伯之]]が反乱を起こすと、使持節・散騎常侍・[[都督]]江州諸軍事・征南将軍・江州刺史に任じられ、これを討伐した。[[506年]]、2万の兵を率いて北魏に侵攻したが、河南城で北魏の平南将軍[[楊大眼]]に敗れ撤退した。[[507年]]、尚書左[[僕射]]に任じられたがこれを固辞、代わりに侍中・中衛将軍・領太子詹事となる。[[508年]]、[[車騎将軍]]に任じられ、翌[[509年]]、以前の官に加えて開府儀同三司・[[京兆尹|丹陽尹]]となった。
 
王茂は官職に就いて取り立てて名声があったわけではないが、寛大な人柄で、部下や民衆に慕われた。普段から居住まいを正しくし、僕妾の前でもだらしない様子をしなかった。容姿が美しく、朝会に出入するたびに人々は彼を仰ぎ見た。建国後の武帝が文雅の士を信任するようになると、王茂はこれを喜ばず、酒宴で酔うたびに不満の気持ちを表したが、武帝はそのたびに彼を宥めてとがめなかった。
 
[[512年]]、司空に任じられ、侍中・丹陽尹はもとのままとされた。丹陽尹を辞すと中権将軍に任じられた。[[513年]]、使持節・散騎常侍・[[驃騎将軍]]・開府儀同三司・都督江州諸軍事・江州刺史に任じられる。515年、任地の江州で死去。享年60。侍中・太尉を追贈された。[[諡]]は忠烈。子の王貞秀が跡を継いだが、服喪中に無礼を働いたことを弾劾され、越州に流された。王貞秀は後に[[広州]]に流されると、北魏の降人である杜景とともに反乱を計画したが、刺史の蕭昂により誅殺された。
 
== 脚注 ==