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{{出典の明記|date=2011年6月}}
'''宝亀の乱'''(ほうきのらん)は[[奈良時代]]に東北地方(後の[[陸前国]])で[[蝦夷]]が起こした[[反乱]]である。首謀者の名から、'''伊治呰麻呂の乱'''(これはりのあざまろのらん)とも呼ばれる。
 
'''宝亀の乱'''(ほうきのらん)は、[[奈良時代]]の[[日本]]の[[東北地方]]で起きた[[反乱]]。[[宝亀]]11年([[780年]])、[[陸奥国]]の一部地域(のちに[[陸前国]]、[[宮城県]]などと呼ばれる地域)にて、[[ヤマト王権#大和朝廷|大和朝廷(ヤマト政権]]、中央政権)に対し、[[俘囚]](服属[[蝦夷]])の指導者が軍を率いて起こしたもので、首謀者の名を採って'''[[伊治呰麻呂]]の乱'''(これはりのあざまろのらん、これはるのあざまろのらん)とも呼ばれる。
==乱の原因==
'''[[伊治呰麻呂|伊治公呰麻呂]]'''(これはりのきみあざまろ、これはるのきみあざまろ)は、[[陸奥国]]府に仕える[[俘囚|夷俘]]の指導者で、上治郡(此治郡の誤記として「これはりぐん」、「これはるぐん」とする見解が有力)[[大領]]となり、[[蝦夷征討]]の功により[[宝亀]]9年[[6月25日 (旧暦)]]([[778年]][[7月24日]])には外[[従五位下]]に叙されていた。『[[続日本紀]]』には、陸奥[[按察使]][[紀広純]]は、はじめ呰麻呂を嫌ったが、後にはなはだ信用するようになったこと、しかし同じ俘囚出身である[[牡鹿郡]]大領の[[道嶋大盾]]は呰麻呂を見下して夷俘として侮り、呰麻呂は内心深く恨んでいたことが記載されている。このことから乱の原因については一般に怨恨説が取られている。
 
: <small>※日付は[[和暦]]による[[旧暦]]。丸括弧内は[[西暦]]で[[ユリウス暦]]。</small>
==乱の経過==
宝亀11年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]([[780年]][[5月1日]])、紀広純が[[覚べつ城|覚鱉城]]建設を建議し[[伊治城]]を訪れた機会をとらえた呰麻呂は、俘囚の軍(俘軍)を動かして反乱を起こし、まず大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺した。陸奥[[介]][[大伴真綱]]だけは囲みを開いて[[多賀城]]に護送されたが、城下の住民が[[多賀城]]の中に入って城を守ろうとしたのに対し、真綱と[[掾]]の[[石川浄足]]はともに後門から隠れて逃げ、住民もやむなく散り散りになった。数日後に俘囚軍は多賀城で略奪放火をして去ったという。当時多賀城の倉庫には
「兵器粮蓄、勝げて計うるべからず」(『[[続日本紀]]』)とある。
 
==乱の 原因 ==
しかし、正史の記録は以後の経過を記さない。多賀城の略奪についても、その指揮官は不明であり、征東大使[[藤原継縄]]の投入後も戦闘は拡大したと見られている。
'''[[伊治呰麻呂俘囚|伊治公呰麻呂夷俘]]'''これはり[[奴隷|隷属]]蝦夷)きみあざまろ、これはるのきみあざまろ)は、出身で[[陸奥国|陸奥]][[国]]に仕える[[俘囚([[服従|夷俘服属]]蝦夷)の指導者であった[[伊治呰麻呂]]は陸奥国は上治郡(此治郡の[[誤記]]として「これはりぐん」あるいは「これはるぐん」とする読む見解が有力)[[大領]]となり、[[蝦夷征討]]の功によりを認められて、[[宝亀]]9年[[6月25日 (旧暦)]]([[778年]][[7月24日]])には[[位|外]][[従五位|従五位下]]に叙されていた。『[[続日本紀]]』には、陸奥[[按察使]][[紀広純]](きのひろずみ)は、はじめ呰麻呂を嫌ったが、のちにはなはだ大いに用す頼を寄せるようになったこと、しかし同じ俘囚出身である[[牡鹿郡]]大領の[[道嶋大盾]](みちしまのおおたて)(卑しい)夷俘の出であるとして呰麻呂を見下して夷俘としてったため、呰麻呂は内心大盾に対してんでみを抱いていたことが記載されている。このことから乱の原因については一般に[[怨み|怨恨]]説がられている。
 
==戦後 経過 ==
[[宝亀]]11年([[780年]])、新たな[[城柵]]・[[覚べつ城|覚&#x9c49;城]](かくべつじょう)の建設を紀広純が建議し、その際に[[伊治城]]<ref group="注" name="伊治城">
記録がないために戦闘の終了時期は不明だが、9月には[[藤原小黒麻呂]]が征東大使となり、翌[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])には「征伐事畢入朝」と『[[続日本紀]]』に見えることから乱は終結に向かったと推察されている。しかし「遺衆猶多」と残党が多くいたことも見えている。
[[神護景雲]]3年2月([[769年]]3月)、伊治郡内(のちの[[栗原郡]]城生野村、現・宮城県[[栗原市]][[築館町|築館]]城生野[つきだてじょうの]と推定される)に築かれた城柵。</ref>
宝亀11年を訪れた機会を捉えた呰麻呂は、[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]([[780年]][[5月1日]])、紀広純が[[覚べつ城|覚鱉城]]建設を建議し[[伊治城]]を訪れた機会をとらえた呰麻呂は、俘囚の軍(俘軍)を動かして反乱を起こし、まず大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺した。陸奥[[国司|介]][[大伴真綱]](おおとものまつな)だけは囲みを開いて[[多賀城]]に護送されたが、城下の住民が[[多賀城]]の中に入って城を守ろうとしたのに対し、真綱は陸奥[[掾]]の[[石川浄足]](いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになって逃れた。数日後俘囚軍は多賀に入って[[略奪放火]]行為働き、[[焼き討ち|焼き払っ]]去ったという。当時多賀城の倉庫には「兵器粮蓄 勝げて計うるべからず<!--(意訳:≪未編集≫)-->」(『[[続日本紀]]』)とある。
 
しかし、正史の記録は以後の経過を記さない。多賀城の略奪についても、その指揮官は不明であり、[[征東大将軍#日本の征東大将軍|征東大使]]・[[藤原継縄]]の投入後も戦闘は拡大したと見られている。
 
== 戦後 ==
記録がないために戦闘の終了時期についてその記録が無いため不明であるが、同年9月(同年10月)には[[藤原小黒麻呂]]が[[征東大将軍#日本の征東大将軍|征東大使]]となり、翌[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])には「征伐事畢入朝(意訳:征伐事業を終えて[[大和朝廷|朝廷]]に戻った)」と『[[続日本紀]]』に見えることから乱は終結に向かったと推察されている。しかし「遺衆猶多」とあり、[[残党]]なおも多くいたことも見えている。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
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<!--記述のあるべき節
-->
== 関連項目 ==
* [[伊治呰麻呂]]
* [[伊治城]] / [[栗原市]][[築館町|築館]]城生野
*[[日本史の出来事一覧]]
* [[日本合戦出来事一覧]]
* [[日本出来事合戦一覧]]
 
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[[Category:奈良時代の戦い]]
[[Category:陸奥国]]
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[[Category:東北地方の歴史]]
[[Category:宮城県の歴史]]
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