「浅井長政」の版間の差分

[[元亀]]元年([[1570年]])、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り[[徳川家康]]と共に[[琵琶湖]]西岸を通過して[[越前国|越前]]の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川軍を背後から急襲。信長は殿を務めた[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]らの働きにより、命からがら近江を脱出した([[金ヶ崎の戦い|金ヶ崎の退き口]])。
 
信長との同盟に反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居中の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われている。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はない。また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、[[金ヶ崎の戦い]]での織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もある。<ref>『安芸毛利元就宛覚書』(毛利家文書)に「浅井備前守別心易色之由、帰洛之途中へ告来候」とあることを根拠に浅井氏挙兵は凱旋途中にその報を受けたとする([[高澤等]]『新・信長公記』)。</ref>
 
同年6月、長政は朝倉軍とともに[[姉川の戦い]]で織田徳川連合軍と戦う。先鋒の磯野員昌が織田軍の[[備え]]15段のうち13段まで崩す猛攻を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという逸話はあるものの信憑性は薄い。結局この戦は織田徳川連合軍の勝利に終わった。
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