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== 藩史 ==
上有知は、[[豊臣政権]]時代に[[佐藤秀方]]が2万5,000石をもってこの地に封じられていたが、その子[[佐藤方政|方政]]の代の[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で西軍に加担して[[岐阜城]]の戦いにおいて戦線離脱したため、戦後になって[[改易]]された。
 
一方、方政の叔父で[[飛騨国|飛騨]]一国を支配する[[金森長近]]は東軍に与して戦功を挙げたため、戦後に所領として上有知1万8,000石を加増された。これを機に家督を養子の[[金森可重|可重]]に継がせて自身は鉈尾山城に入った。後に小倉山に新城を築いて移り住み、上有知の殖産興業化を目指し、牧谷地域の製紙業を発展させ、城下町の建設にも尽力した。
 
慶長13年([[1608年]])8月、長近が死去すると、可重が[[高山城 (飛騨国)|高山城]]を居城として[[飛騨高山藩]]を統治し3万3,000石、上有知藩は次男の[[金森長光|長光]]が2万石で統治した。だが、慶長16年([[1611年]])10月、長光は6歳で夭折したため、上有知藩は廃藩となった。
 
== 歴代藩主 ==