「マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス」の版間の差分
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'''マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス'''('''{{lang-la|Marcus Porcius Cato Uticensis}}'''、 [[紀元前95年]] - [[紀元前46年]]4月)は[[共和政ローマ]]期の[[紀元前1世紀]]の政治家、哲学者である。高潔で実直、清廉潔白な人物として知られる。[[ポエニ戦争]]の時代に活躍した[[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス]](大カト)の曾孫にあたり、
== 生涯 ==
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キプロスに赴任したカトは無事にキプロスのローマへの併合を完了させた。キプロスは豊かな地方であったが、カトはクァエストルの職にあった時と同様に不正を行わなかったことから、[[属州総督]]後に当時のローマで頻発していた汚職による告発とは無縁であった。キプロス属州化によって、ローマは新たに銀貨で7,000タラントを得ることとなった。元老院はカトに対して、キプロスでの功績により凱旋式を行うように伝えたものの、法に反するとしてその申し出を拒否した。
なお、ローマへ帰還したキケロは「[[パトリキ]]出身のクロディウスが([[プレブス]]出身者しか就任資格の無いはずの)護民官に選出され、その職で行った法的措置は全て無効である」と発言・決議に持ち込んだのに対し、カトは「自
=== カエサルとの対決 ===
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=== ローマ内戦 ===
{{main|ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)}}
[[紀元前49年]]1月、カエサルは元老院派を打倒するべく、イタリア本土と属州の国境であった[[ルビコン川]]を渡って、ローマへの進軍を始めた。カトはポンペイウスらの元老院派の中心人物であり、カエサルへの徹底抗戦を誓って、その年の任地であった[[シチリア|シキリア属州]]へと向かったが、[[ガイウス・スクリボニウス・クリオ]]の軍に攻め込まれたカトは戦闘に入る前に、ポンペイウスの本軍が駐留していた[[アカエア]](ギリシア)へと逃れた<ref>カエサル「内乱記」[[Wikisource:The Civil War (Caesar)/Book 1#30|1.30]]</ref>。
アカエアでカトは海軍を率いていたが、ポンペイウス率いる陸軍が[[ファルサルスの戦い]]([[紀元前48年]]8月)で敗北したことから、元老院派の強固な地盤の1つであった[[アフリカ属州]]へと逃れ、[[ウティカ]]へと入った。
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