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'''デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス'''('''{{lang-la|Decimus Junius Brutus Albinus}}'''
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デキムス・ブルトゥスはカエサルの遠縁に当たり、
ブルトゥスが本格的に史上に名前が上がるのは、カエサルによる[[ガリア戦争]]へ[[レガトゥス]](総督代理)として従軍した時からとなるが、同じガリア遠征軍には[[プブリウス・リキニウス・クラッスス]]や[[クィントゥス・トゥッリウス・キケロ]]らローマ元老院有力者の子弟も多数参加した。ガリア戦争では、[[紀元前56年]]の[[モルビアン湾の海戦]]で海戦に強みを持つ[[ウェネティ族]]を相手に勝利を収めたほか、カエサルからたびたび軍団の指揮を任され、[[アレシアの戦い]]にも参戦、ガリア戦争の勝利に貢献した。
カエサルと[[グナエウス・ポンペイウス]]の間で行われた[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]でもカエサルに従った。[[オプティマテス|元老院派]]に組したマッシリア(現:[[マルセイユ]])に対する戦い([[マッシリア包囲戦]])でもカエサルより船団を任され[[ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前54年の執政官)|ルキウス・ドミティウス]]率いる船団の迎撃及び同市の封鎖を行い、マッシリア降伏に寄与した。
また、[[紀元前48年]]から[[紀元前46年]]まで[[プラエトル|法務官]]格副官として[[ガリア]]の統治を行い、[[紀元前44年]]にはカエサルから[[ガリア・キサルピナ]]における[[コンスル]]格の指揮権([[インペリウム]])を与えられ、
カエサルの遺言状ではブルトゥスは第1位遺産相続人である[[続柄#大甥・大姪|大甥]]オクタウィウス(
その事実を知ったブルトゥスは、蒼白になって暗殺に加わったことを後悔し、家に閉じこもったと言われる。
その後
▲その後、ブルトゥスは共和派の将軍として、カエサルの後継者を自任していた[[マルクス・アントニウス]]らカエサル派に抗した。生前のカエサルによって任命されていた[[ガリア・キサルピナ]]に移動していたブルトゥスは、[[ムティナの戦い|ムティナ]](現[[モデナ]])でアントニウスの攻囲を受けたが、[[アウルス・ヒルティウス]]、[[ガイウス・ウィビウス・パンサ・カエトロニアヌス]]の両コンスル及び[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]の救援を受け包囲を脱し、アントニウスを追撃した。しかし、ガリアで[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]がアントニウスに合同するとこれに敗北し、逃走中殺害された。
[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の戯曲『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]』の中では「デキウス」として登場するが、これはシェイクスピアの誤りである。
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