「松本幸四郎 (5代目)」の版間の差分

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| 芸名 = 五代目 松本幸四郎
| ふりがな = ごだいめ まつもと こうしろう
| 画像ファイル = Kōshirō Matsumoto V as IshikawaNikki GoemonDanjō in Meiboku Sndaihagi.jpg
| 画像サイズ = 180px
| 画像コメント = 『[[楼門五三桐伽羅先代萩]]』の石川五衛門。[[文政]]7年([[1824年]])3月、江戸[[中村座]]。仁木弾正
| 屋号 = [[高麗屋]]
| 定紋 = 四つ花菱  [[File:YotsubishiYotsu Hana-bishi inverted.svgjpg|50px]]
| 生年 = 1764
| 生月 =
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}}
 
'''五代目 松本 幸四郎'''(ごだいめ まつもと こうしろう、[[明和]]元年([[1764年]]) - [[天保]]9年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]([[1838年]][[7月1日]])は江戸の[[歌舞伎]]役者。[[屋号]]は[[高麗屋]]。定紋は[[:File:Yotsu Hana-bishi inverted.jpg|四つ花菱]]、替紋は[[:File:Fuse-chō inverted.jpg|浮線蝶]]。俳名に錦升・金升・錦江、雅号に秋夜亭がある。江戸後期の名優で、その面立ちから俗に'''鼻高幸四郎'''(はなたか こうしろう)と呼ばれた。俳名は錦升、金升、錦江。雅号は秋夜亭。[[屋号]]は[[高麗屋]]
 
父は[[松本幸四郎_(4代目)|四代目松本幸四郎]]。[[1770年]](明和7年 (1770) [[市川純蔵]]と名乗り江戸中村座で初舞台。三代目[[市川高麗蔵]]を経て[[1801年]]([[享和]]元年)1111 (1801)、父の男女川京十郎改名とともに五代目[[松本幸四郎]]を襲名。1838年(天保9年)55 (1838)、中村座出演中に倒れて死去。
 
はじめ立役を演じていたが実悪に転じた。鋭い目つきと高い鼻が凄みを与え、[[東洲斎写楽]]・[[歌川豊国|初代歌川豊国]]・[[歌川国貞|三代目歌川豊国]]の芝居絵にもその芸風が窺われる。実悪では三都随一、古今無類と最大級の賛辞を受けた。彼が舞台で見得をするとあまりの怖さに子供が泣出したと言われている。1805 (文化2)2年11月 (1805) 市村座『けいせい吉野鐘』では評判記役者大極丸に「年若なれどもお江戸の大立者、実事実悪とも兼備たるお上手故めったにのぼす事ではないわいの」と書かれている。
 
当り役は『[[菅原伝授手習鑑]]・寺子屋』の松王、『[[仮名手本忠臣蔵]]』の高師直、『[[義経千本桜]]』の権太。とくに『伽羅先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)の仁木弾正(にっき だんじょう)は生涯の当り役とされなり現行の舞台今日に至るま彼に敬意を評して仁木の眉尻の黒子、三つ銀杏はホクロを描いたり(このホクロは五代目の顔の特徴のひつだった)、[[:File:YotsubishiYotsu Hana-bishi inverted.svgjpg|四つ花菱]]や[[:File:Mitsu Ichō inverted.jpg|三つ銀杏]]の紋様が衣装の至る所用いちりばめられ幸四郎に敬意を表していたりす(四つ花菱は松本幸四郎の定紋、三つ銀杏は[[市川染五郎]]の定紋)顔のもう一つの特徴だっ高い鼻は、『菅原伝授手習鑑・車引』の松王が客席ではなく舞台下手に向かって横向き見得は鼻が高かを切るいう独特の型になて今日に伝わっている(元は幸四郎の特徴鼻の高さ活か強調て編みた演されだっであるが定着した)
 
新作では[[鶴屋南北 (4代目)|四代目[[鶴屋南北]]と組み、[[時代物]]では『[[時今也桔梗旗揚]]』(馬盥)の武智光秀のような謀反人、世話物では『[[四谷怪談|東海道四谷怪談]]』の直助権兵衛、『[[謎帯一寸徳兵衛]]』<!--(なぞのおび ちょっと とくべえ)-->の大島團七などの悪役を演じた。いずれも冷酷な役どころで、とくに世話物では庶民の生々しい姿を写実的に演じ新しい芸風を確立。その後の歌舞伎に大きな影響を与えた。
 
子に[[松本幸四郎 (6代目)|六代目松本幸四郎]]、養子に[[市川壽美蔵|三代目市川壽美蔵]]がいる。墓所は[[東京都]][[江戸川区]]の大雲寺。