「ホルヘ・ラファエル・ビデラ」の版間の差分

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荒井白石 (会話 | 投稿記録)
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== 来歴 ==
=== クーデターによる政権掌握まで ===
[[ブエノスアイレス州]]・[[メルセデス (ブエノスアイレス州)|メルセデス]]に生まれる。国軍士官学校を卒業後、士官学校校長などの要職を歴任し、[[1973年]]には陸軍参謀総長、[[1975年]]にはペロン大統領により陸軍総司令官に任命された。かねてから、極度の[[インフレーション|インフレ]]と[[左翼]]テロの多発によって、ペロンに対する信頼が失墜しきっていたこともあり、[[1976年]][[3月24日]]にビデラを中心とする軍部はクーデターを起こし、ペロンの追放に成功、軍事評議会を設置し、5日後の[[3月29日]]に大統領に就任した。
 
=== 大統領として ===
当初ビデラは、政治ならびに経済、社会的混乱が収まれば民政を復帰させるを公約していた。しかし、国会機能を停止させ、左翼ゲリラ掃討を理由で多くの一般市民を逮捕した。これにより、1万3千人から3万人以上が行方不明となり、後に「汚い戦争」と呼ばれることとなるこの弾圧は、国内外から多くの非難を浴びることとなった。
 
一方、混乱に陥った国内経済を回復させる為に、それまでの[[ペロン主義]]に代わって[[市場原理]]を優先する経済開発を行い、当初は多少の成果を収めることに成功したものの、[[外債]]が急増したことにより、更なるインフレを招くこととなり、[[1981年]][[3月28日]]に退陣した。
 
=== 大統領退陣後 ===
退陣後の[[1983年]]に、[[ラウル・アルフォンシン]]政権が成立した後、過去の[[軍事政権]]における関係者に対する裁判が始まった。[[1985年]]に、ビデラは殺人·拉致·拷問などに関与した罪で終身刑を言い渡されたが、[[1990年]]に[[カルロス・メネム]]大統領の[[恩赦]]により釈放された。