「流行歌」の版間の差分

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これに戸惑ったのが戦前派の歌手である。彼らの多くは昭和28(1953)年を過ぎる頃からヒットが出にくくなってきた。
 
特に流行歌界に衝撃を与えたのが、[[藤山一郎]]のレコード専属歌手としての引退宣言である。初期デビューの歌手の中で唯一最前線に立っていた藤山も、昭和28年以降なかなか目立ったヒットが出づらくなっていた。さらに彼自身、今の流行歌界の現状に強い不信感をおぼえ「今の唄はパチンコ・ソングが多い」と批判していた。このようなことから昭和29(1954)年に引退を決意し、23年間のレコード専属歌手生活に終止符を打ったのである。そして、本来の藤山一郎の音楽に戻り、NHKNHKの音楽放送を通じてクラシックの小品、内外の歌曲、ホームソング、家庭歌謡の普及に努めた。また、紅白歌合戦では東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、社歌、校歌などの作曲を手掛け、指揮者・作曲家としても活躍した。
 
これにより戦前派の歌手は昭和30年代半ばまで紅白歌合戦に出場していたとはいえ、ヒットの表舞台からほぼ去り、流行歌界は演歌系歌手の戦後派の天下となった。
しかし戦後、これらの作詞家・作曲家の中には戦争賛美に加担したことを悔い、罪悪感にさいなまれた者も少なくない。たとえば、古関裕而は大戦末期に作曲した『比島決戦の唄』について、'''「……私にとっていやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。いまさら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、幻の戦時歌謡としてソッとしてある。」'''と証言している(古関裕而『鐘よ鳴り響けー古関裕而自伝』主婦の友社 1980年)。
 
戦時歌謡はメディアによる制作も行われた。1936年6月1日「[[国民歌謡]]」がNHKNHKで開始された。人気曲はレコード化されて大ヒットした。それには、「朝」・「[[椰子の実]]」・「春の唄」など今日も愛唱されている作品があるが、「[[愛国の花]]」・「隣組の唄」・「[[めんこい仔馬]]」・「[[国民進軍歌]]」など明らかにプロパガンダ的要素の強い作品も多い。
 
===「大陸歌謡」との関係===
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