「ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ」の版間の差分

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'''ポンバル侯爵セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・イ・メロ'''(ポンバルこうしゃく - , '''Sebastião José de Carvalho e Melo, Marquês de Pombal''', [[1699年]][[5月13日]] - [[1782年]][[5月8日]])は、[[近世]][[ポルトガル王国]]の政治家。国王[[ジョゼ1世 (ポルトガル王)|ジョゼ1世]]の全面的信任を得て長年独裁権力を振るい、[[啓蒙主義|啓蒙的]]専制を行った。
 
== 宰相への道 ==
セバスティアン・デ・カルヴァーリョ・イ・メロは[[リスボン]]の小貴族マヌエル・デ・カルヴァーリョ・イ・アタイデの息子として生まれた。[[コインブラ大学]]に学び、しばらく軍に勤務した後リスボン戻り、アルコス・セバスティアン伯爵の姪であるテレサ・デ・メンドーサ・イ・アルマダと結婚した。しかし、妻の実家は身分違いだと反対しており、何かと差し障りが多かったので、[[ポンバル]]近くの領地に引きこもった。[[1738年]]に[[ロンドン]]駐在ポルトガル大使に任命され、[[1745年]]からは[[ウィーン]]駐在ポルトガル大使に移った。ポルトガル王妃[[マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1683-1754)|マリア・アナ]]は[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]・[[ハプスブルク家]]の出身で、カルバーリョ何かと目に掛をかけ、彼の最初の妻が亡くなると、オーストリア元帥[[レオポルト・フォン・ダウン|ダウン伯爵]]の娘と結婚させた。しかし、国王[[ジョアン5世 (ポルトガル王)|ジョアン5世]]は彼を嫌い、[[1749年]]にウィーンから召喚した。翌1750年、ジョアン5世が死去すると、新王[[ジョゼ1世 (ポルトガル王)|ジョゼ1世]]はカルヴァーリョを好み、王太后の了解を得て外務大臣に任命した。やがて王はカルヴァーリョを全面的に信頼するようになり、国政を委ねていった。
 
== 啓蒙主義 ==
[[ファイル:Gaiola pombalina.jpg|thumb|250px|right|大地震後に推進されたポンバリーナ様式の耐震構造]]
大使在任中に、[[産業革命]]が進む英国の経済的成功に強烈な印象を受けていたカルヴァーリョは、[[1755年]]に宰相に就任すると、同様な経済政策をポルトガルでも採用、強力な権限をつ商業評議会を設立して、財政の改革や工業化を推進した。また[[インド]]のポルトガル植民地における奴隷制を廃止し、陸海軍を再編、コインブラ大学も再建した。「ポンバルの改革」によって、それまで卑しいとされてきたポルトガルの[[ブルジョアジー]]の地位は大きく向上する。
 
同年[[11月1日]]、[[1755年リスボン地震|リスボン大地震]]が発生、津波と火のためリスボンの町は壊滅的な打撃を受けた。カルヴァーリョは間一髪の差で生き残り、再建に乗り出した。聖職者の反対を押し切って市内の遺体を沖合に運んで水葬するというカルヴァーリョの策により幸い疫病は発生せず、カルヴァーリョの指揮により市民がガレキ瓦礫撤去と再建に動員されリスボンの町は碁盤目状に区画され、新興ブルジョアジーが町の中心部に進出した。この時再建されたリスボン市街([[バイシャ・ポンバリーナ]])の建築様式をポンバル様式という。
 
== 専制支配 ==
この成功に気を良くしたジョゼ1世はさらに独裁的な権力をカルヴァーリョに与え、自分は政務に関心を示さず、狩猟や馬術に没頭していた。だが、カルヴァーリョの権力が拡大すると、これを快く思わない貴族たちの反感が高まり、[[1758年]]にジョゼ1世暗殺未遂事件が起こった。カルヴァーリョは大貴族に対する大弾圧に乗り出し、1,000人以上を逮捕、被告は拷問によって自白を強いられた。ポルトガル最大の貴族アベヴェイロ公爵{{enlink|José de Mascarenhas da Silva e Lencastre, Duque de Aveiro||pt|a=on}}は四肢切断のうえ火刑に処せられた。次にタヴォラ侯爵{{enlink|Francisco de Assis de Távora||pt|a=on}}も車裂きの刑に処され、主だった貴族は処刑、投獄、追放を余儀なくされた。国王の非嫡出の兄弟姉妹であっても例外にはならず、カルヴァーリョに敵視され修道院に幽閉される者もいた。[[イエズス会]]も陰謀に加わったとみなされ、翌年にはポルトガルから追放され、その巨大な財産は没収された。[[イエズス会]]はブラジルの内陸部に広大な宣教地を有し、同時に豊かな農園と都市部の不動産を握っていたことからも、ブラジルを国家の富と個人的利益の源泉とみなしていたカルヴァーリョにとって排除の対象だった。[[1768年]]には、国家から独立的な権力を行使していた[[異端審問所]]を国家に従属する国王裁判所に再編し、その長官に弟のパウロ・カルヴァーリョを任命している。
=== 審問会 ===
カルヴァーリョは経済的発展のためにユダヤ系ポルトガル人に対する制度的な迫害を撤回しようとしていたが、イエズス会にとっては認めがたい方針であり、審問所の持つ権限を妨害に用いていた。カルヴァーリョは敵対したイエズス会を陰謀への加担を理由として排除した後、審問所の機能を残したまま主管を教会から国家に移して敵対者の排除に利用した。カルヴァーリョはキリスト教徒、ユダヤ教徒らに同等の法的権利を与え、さらにはポルトガル本国内に黒人奴隷をもちこんだ場合、即時の奴隷の解放を義務付けた。これにより、ポルトガル本国に奴隷をもちこむことは不可能となる。これは啓蒙主義的な観点からの奴隷解放ではなく、労働力が不足しがちな植民地から奴隷が連れ出されるのを防ぐための労働力確保を目的とした政策であった。
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ブラジルは次第に自立を志すようになり、カルヴァーリョの努力に関わらずブラジルに対する支配力は年々低下していった。当時のポルトガルは保護商品を高値で独占市場に売りつけるという植民地運営を行っていたが、ブラジルが豊かになるにつれて消費者がイギリス製品を選択するようになり、ポルトガルは競争に敗れた売れ残り品を大量に抱えるようになっていた。ポルトガルは他に独占的な市場をつくる必要が生じ、[[リスボン]]の商人らはアフリカの[[アンゴラ]]の市場に目をつける。たちまちアンゴラはポルトガル製品の廃棄場となり、ブラジルでの売れ残りが売りつけられ、代わりに奴隷が輸出されていった。ポルトガルはリスボン商人に有利なようにアンゴラのアフリカ商人に規制を加えたが、アンゴラ北部にイギリス人が港を開くと、アフリカ商人たちはポルトガルの規制を嫌い、以後奴隷の供給はイギリスに向けられた。
=== ポートワイン ===
1720年代頃から[[ポルト]]の商人たちはイギリスへのワインの輸出を行っていた。イギリスにとって、政治に影響されやすいフランスのワインは供給に不安があり、スペインのワインはポルトガルに比べて質で劣っていたため、代用品としてテーブルワインの需要があった。ポルトにはイギリス商人たちが買い付けに訪れたが、イギリス商人たちは自分たちの足で農家に出向き、直接舌で確認して買い付けていた。そのため、ポルトガルのワインはイギリスの需要を満たすために質が維持されていた。1730年代にイギリス商人たちは、ドーロ産の最高級ワインにイギリス産ブランデーを混ぜてアルコール度数を高め、熟成させた[[ポートワイン]]を作り出す。これにより、ワインに付加価値がつき、ポルトにおけるイギリス商人たちはより大きな利益を手にした。しかし、ワインのノウハウがないポルトガルの商人たちにポートワインの作成は不可能であり、原料のワインを長年にわたって供給するだけで利益は以前のままだった。1750年代に入ると、ポルトガルの安価なワインに付加価値をつけて利益を稼ぐイギリス商人の成功がカルヴァーリョの注意を引くようになる。

1756年、カルヴァーリョはワイン会社を設立し、カルヴァーリョは自らの所有する葡萄園をドーロと無関係の土地でありながら指定原産地に加え、樹齢の高いブドウの木を伐らせることでワインの供給量を制限し、同時に質を高めてイギリス商人への販売価格を押し上げた。また、会社の運営費は都市や教会で高い地位にある者に無理に要請して投資させたものであり、その富の分配で中産階級を増加させた。しかし富を得たのはカルヴァーリョら指定原産地となった農家だけであり、イギリス商人が直接買い付けに農家を回って品質を確保することもなくなったので、かえって質の低下を招いてポルトガルワインの輸出は全体的に見ると低下した。また、強力にワインの専売化が推し進められ、一般大衆の安価なものですら対象となったため、民衆の暴動を招いた。カルヴァーリョは30名を絞首刑にすることで暴動を鎮圧した。
 
=== 工業化 ===
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== 解任 ==
[[ファイル:Rua Augusta Lisboa.JPG|thumb|250px|right|リスボンの[[バイシャ・ポンバリーナ]]のアウグスタ通り]]
[[1770年]]、ジョゼ1世は宰相カルヴァーリョをポンバル侯爵に叙した。ポンバル侯爵は[[1777年]]ジョゼ1世が死去するまで独裁権力を行使した。だが、[[マリア1世 (ポルトガル女王)|マリア1世]](在位:1777年 - 1816年)はポンバルを好まず、彼が大貴族に加えた残忍な弾圧を忘れていなかった。ポンバルは宰相職を解任され、女王から20[[マイル]]以内に近付くなという勅令まで出された。ポンバルは田舎の荘園に引きこもり、そこにフランス式庭園をもつ豪華なヴィラを建てている。ただ女王が彼の荘園の近くまで来た時は勅令に従い、しばらく自分の地所から立ち去らなければならなかった。[[1782年]]、ポンバル侯爵はこの荘園で平和に死去した。今日、リスボン中心部の最も重要な地下鉄駅はポンバル侯爵にちなんで命名されており、その広場には侯爵の銅像がそびえている。
 
== 参考文献 ==
David* Birminghamデビッド・バーニンガム(David Birmingham)著、高田有現、西川あゆみ訳『ポルトガルの歴史』(創土社 ケンブリッジ世界各国史シリーズ、2002年) ISBN4ISBN 978-4-7893-0106-0
 
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