「ミンダウガス家」の版間の差分

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==系図==
ミンダウカスとその兄弟の[[:en:Dausprungas|ダウスプルンガス]]が[[:en:List of early Lithuanian dukes|初期5人の公]]間で最初に言及されるのが[[1219年]]の[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]との条約である。この時から兄弟とも比較的に若く、高い地位を継承したことが暗に認められる<ref name=cd/>。しかしながら、積極的な大公(''ein kunic grôß'')が死んだと言及する[[:en:Livonian Rhymed Chronicle|リヴォニア押韻年代記]]を除き、兄弟の父に関する時代は史料には書かれていない。16~17世紀に書かれた年代記は兄弟の父を[[リムガウダス]] ({{lang-lt|Rimgaudas}})と記し、パレモナス朝の伝説の一部としている<ref name=cd/>。
 
ダウスプルンガスはそれ以外のところでは言及されていない。しかしながら、ミンダウカスには、自らに叛旗を翻した[[:en:Tautvilas|タウトヴィラス]]と[[:en:Gedvydas|ゲドヴィダス]]という2人の甥がいたことが知られている。歴史家はミンダウカスのその他の兄弟についての資料を有していないが、次第に2人はダウスプルンガスの息子ではないかと推測するようになった<ref name=zi/>。[[1249年]]から[[1252年]]までの内戦中にタウトヴィラスとゲドヴィダスは義理の兄弟であるハールィチ・ヴォルィーニ大公[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダニィーロ]]に支援を求めた。この僅かな情報は兄弟には姉妹がいたことを指し示している。その姉妹はダニィーロの2番目の妃であったが2人の間には子をもうけることはなかった。ダウスプルンガスの妻は恐らくは[[ジェマイティヤ公国|ジェマイティヤ公]][[:en:Vykintas|ヴィーキンタス]]の姉妹だが、それゆえにヴィーキンダスはタウトヴィラスとゲドヴィダスの叔父にある<ref name=zi/>。ゲドヴィダスに関する最後の伝聞として[[1253年]]の[[ボヘミア王国|ボヘミア]]で死んだと信じられている <ref name=gedv/>。 タウトヴィラスは[[1263年]]に従兄弟の[[:en:Treniota|トレニオタ]]に殺された。何人かの歴史家はタウトヴィラスには[[ヴィテブスク]]を統治したコンスタンティンという息子がいたと主張<しているが<ref name=taut/>、 他の歴史家は異なる見解としてタウトヴィラスの息子は[[1271年]]に[[ノヴゴロド]]から[[プスコフ]]に送られたアイグストだと主張する<ref name=scr/>。
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[[1219年]]のハールィチ・ヴォルィーニ大公国との条約での注釈ではミンダウカスはブリオニス家のヴィスマンタスの妻を奪取したと記載されていえる。ヴィスマンタスの妻とモルタは同一人物ではないかと仮定される<ref name=kiaupa/>。ヴィスマンタスはミンダウカスに対する戦闘で[[1252年]]に死んだことが知られているが、ミンダウカスとモルタの結婚の資料に関しては知られていない。モルタとの間にどれくらい子を儲けたのかは一致しない。年代記は[[1261年]]にレプリスとゲルストカスの2人の息子について言及している。[[1263年]]にルクリスとルペイキスの2人の息子はミンダウカスとともに暗殺された。これが唯一の信用に足りる情報であるが、歴史家の間では[[:en:scribe|筆記者]]による名前の歪曲に伴う2人の息子は同一であるのか、息子は4人だったのか一致しない<ref name=kiaupa/>。 ヴァイシュヴィルカスとタウトヴィラス(2人ないし4人の息子がおり、夭折したのではないかと指摘されている<ref name=kiaupa/>)を除き、暗殺後の公位を巡る何人かの競争相手に関する資料はない。
 
モルタ没後の[[1262年]]にミンダウカスは[[:en:Daumantas of Pskov|ダウマンタス]]と結婚していた名前の知られていないモルタの姉妹を奪い取った。この暴挙はダウマンタスを[[:en:Treniota|トレニオタ]]との同盟及びミンダウカスをその2人の息子とともに暗殺させる動機となった。トレニオタはミンダウカスの甥である。トレニオタはジェマイティア公であるヴィーキンタスないし[[:en:Erdvilas|エルヴィダス]]の息子であると信じられている<ref name=zi/>。 仮に本当にヴィーキンタスの息子であるのなら、ヴィーキンタスの姉妹と結婚したダウスプルガスとダウスプルガス(及びミンダウカス)の姉妹と結婚したヴィーキンタスという二重の婚姻が存在したことになる<ref name=zi/>。エルヴィダスは[[1219年]]の条約に言及されているだけである。その他の甥である[[:en:Lengvenis (13th century)|レングヴェニス]]は[[1242年]]から[[1260年]],にかけてリトアニア国家において重要な役割を果たした<ref name=lengv/>。
 
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| 8 style="border-width:0px 0px 2px 0px; border-style: solid; border-color:black;" | &nbsp;
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| 10 style="border-left:1px solid #aaa; border-top:1px solid #aaa; border-right:1px solid #aaa;" bgcolor="#f9f9f9"| '''[[:en:Treniota|トレニオタ]]'''
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