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[[File:Skirgailo.jpg|thumb|スキルガイラ]]
'''スキルガイラ'''('''[[イヴァン]]'''という名でも知られている、[[1353年]]もしくは[[1354年]]-[[1397年]][[1月]][[キエフ]]で没、[[1383年|1383]]/[[1384年]]に「[[カジミェシュ]]」という名で[[洗礼]])は[[1386年]]から[[1392年]]まで兄である[[リトアニア大公国|リトアニア]][[リトアニアの統治者の一覧|大公]][[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヤガイラス]]の[[摂政]]であった。リトアニア大公[[アルギルダス]]と[[ユリアナ・トヴェルスカ]]の息子である。
 
== 伝記 ==
[[1377年]]に[[アルギルダス]]が死んだ後に[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヤガイラス]]は[[リトアニア大公国|リトアニア]][[リトアニアの統治者の一覧|大公]]になった。ヤガイラスとその叔父である[[ケーストゥティス]]及び従兄弟の[[ヴィータウタス]]の間で噴出した王朝の争いはスキルガイラによって鼓舞されたと信じられている。[[ドヴィジスク条約]]の論議よりも調度1年前の[[1379年]]にスキルガイラが[[ドイツ騎士団]]の許に赴いたのは知られている。[[リトアニアの内戦 (1381年–1384年)|内戦中]]にスキルガイラはヤガイラスを助け、ケーストゥティスとヴィータウタスを[[クレヴァ城]]に幽閉する主要な役割を果たした。何人かの歴史家はケーストゥティスの幽閉から1週間後の死はスキルガイラによる[[暗殺]]と推測している。その報酬としてスキルガイラは[[トラカイ]]公を授与された。
 
ヤガイラが[[クレヴォの合同]]に向けて準備している時にスキルガイラは積極的に交渉加わり、[[ポーランド王国|ポーランド]]との外交使節の先頭に立った。交渉は成功してヤガイラスはポーランド女王[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィ|ガ]]と結婚して[[1386年]]にポーランド王に即位した。ヤガイラスはスキルガイラをリトアニアの[[摂政]]にした。しかしながらスキルガイラは貴族の間では人気がなく、ヴィーウタウタスはこれを好機とみて挙兵した。[[1389年]]に[[リトアニアの内戦 (1389年–1392年)|新たな内戦]]が始まったが、ヴィーウタスは[[ヴィリニュス]]の攻撃に失敗して[[ドイツ騎士団]]に助けを求めた。[[1392年]]にヤガイラスとヴィーウタウタスは[[オストロフの和平]]に調印して、ヴィーウタウタスはリトアニア大公国の摂政になった。トラカイ公はヴィータウタスの財産に戻った。
 
スキルガイラには補償として[[ヴォルィーニ]]と[[キエフ]]が与えられた。スキルガイラの死の状況は全く分かっていない。[[正教会]]の記録では毒殺されたと噂されている。スキルガイラは[[キエフ・ペチェルスキイ修道院]]に埋葬された。
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*[[リトアニアの統治者の一覧]]
 
{{先代次代|[[リトアニア大公国|リトアニア]][[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公(摂政)]]|1386 - 1392|[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヤガイラス]]|[[ヴィータウタス]]}}
 
{{DEFAULTSORT:すきるかいら}}
[[Category:1397年没]]
[[Category:リトアニア大公]]
[[Category:トラカイ公]]
[[Category:アルギルダス家]]