「世良修蔵」の版間の差分

長州藩において[[下関戦争]]敗戦後に[[奇兵隊]]が組織されると、後に3代目総督となる同郷・同門の[[赤根武人]]の招聘を受けて[[文久]]3年([[1863年]])頃奇兵隊に入隊し、奇兵隊書記となる。さらに[[慶応]]元年([[1865年]])の[[第二奇兵隊]]発足に伴い軍監に就任した。慶応2年([[1866年]])、赤根が佐幕派に内応したとの疑惑を受けて脱走すると世良も関与を疑われ謹慎処分となったが、同年4月に発生した第二奇兵隊の[[倉敷浅尾騒動]]事件を受けて隊内の安定のため復職している(この際、浦家より世良姓を賜り、[[世良修蔵]]となっている)。
 
幕府による[[第二次長州征伐]]が行われると第二奇兵隊を率いて抗戦し、同年6月の大島口において[[伊予松山藩|松山藩]]を中心とした幕府軍相手に勝利を収めた。停戦後は萩の海軍局へ転出し、また[[京都]]で[[薩摩藩]]等との折衝に当たったが、慶応4年([[1868年]])1月、幕府方との[[鳥羽・伏見の戦い]]に際し前線に復帰し、長州庶民軍である第二中隊([[第二奇兵隊]])や第六中隊([[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]])を指揮して戦い、新政府軍の勝利に貢献している。特に1月6日の戦闘において世良率いる別働隊が[[八幡山]]の旧幕府軍陣地を突破する活躍をしている。
 
その後は薩摩の[[黒田清隆]]、長州の[[品川弥二郎]]に代えて(彼らは就任を固辞した)、薩摩の[[大山綱良|大山格之助]]と共に新政府の[[奥羽鎮撫総督府]][[下参謀]]となり、[[戊辰戦争]]においては同年3月[[会津藩]]征伐の為に総督[[九条道孝]]以下570名と共に派遣された。[[仙台藩]]・[[米沢藩]]らによる会津救済嘆願があったが、あくまで武力討伐せよという強硬姿勢を貫いたことから、次第に仙台藩士らから穏便な会津処置の障害と見られるようになった。さらに福島城下の[[金沢屋]]に宿泊した世良が当時[[新庄]]にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日に記した密書(「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」と書かれていた)を、送付の依頼を受けた[[福島藩]]士を通じて入手した仙台藩士は世良の暗殺実行を決意(閏4月14日には仙台藩家老[[但木土佐]]らの承認を受けていた)。閏4月20日未明、仙台藩士[[瀬上主膳]]・[[姉歯武之進]]、福島藩士[[鈴木六太郎]]、[[目明かし]][[浅草屋宇一郎]]ら十余名に襲われる。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日[[阿武隈川]]河原で斬首された。世良の死をきっかけとして、新政府軍と[[奥羽越列藩同盟]]軍との戦争が始まる事になる。
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