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[[ファイル:K01.jpg|260px|right|thumb|海東諸国全図]]
『'''海東諸国紀'''』(かいとうしょこくき, {{lang-ko|해동제국기}})は、[[李氏朝鮮]]領議政(宰相)[[申叔舟]](シン・スクチュ)が[[日本|日本国]]と[[琉球王国|琉球国]]について記述した[[漢文]]書籍の歴史書。[[1471年]](成宗2年)刊行された。
 
[[1443年]]([[世宗 (朝鮮王)|世宗]]25年)[[朝鮮通信使]]書状官として日本に赴いた後、[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の命を受けて作成したもので、日本の[[皇室]]や[[日本国王|国王]](武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。
 
== 内容 ==
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{{quotation|・・・[[周]][[平王]]四十八年、其始祖'''狭野'''起兵誅討、始置州郡・・・|序文}}
{{quotation|日本は最も久しく、其つ大なり。其の地は[[黒龍江]]の北に始まり、我が[[済州島|済州]]の南に至り、[[琉球王国|琉球]]と相接し、其の勢甚だ長し。その初は、処処に衆を保ち、おのおの自ら国をつくる。[[]][[平王 (周)|平王]]四十八年、其の始祖の狭野は兵を起こして誅討し、初めて州群を置く。大臣おのおの占めて文治するも、中国の封建のごとくは統属甚しからず。習性は強悍にして剣槊(武術)に精なり。舟楫に慣れ、我れと海を隔てて相望む。之を撫するに其の道を得ば、則ち朝鮮は礼を似てし、其の道を失えば、則ち輒ち肆に剽窃せん。}}
{{quotation|人皇の始祖は[[神武天皇]]なり。名は'''狭野'''。地神の末主[[ウガヤフキアエズ|彦瀲尊]]の第四子。母は[[タマヨリビメ|玉依姫]]。俗に海神の女(むすめ)と称す。庚午の歳を似て生まれる。周の幽王十一年なり。四十九年戊午、大倭州に入り、尽く中洲の賊衆を除く。五十二年辛酉正月庚申、初めて天皇を号す。百十年己未、国都を定む。在位七十六年。寿百二十七。}}
{{quotation|[[孝霊天皇]]。[[孝安天皇]]の太子なり。元年は辛未。七十二年壬午、[[]]の[[始皇帝]]、[[徐福]]を遣わし、海に入り仙福(不老不死の薬)を求めしむ。遂に[[紀伊国|紀伊州]]に至りて居す。在位七十六年。寿百十五。}}
{{quotation|[[崇神天皇]]。[[開化天皇]]の第二子なり。元年は甲申。始めて璽剣を鋳す。[[近江国|近江州]][[琵琶湖|大湖]]を開く。六年己丑、始めて[[天照大神]]を祭る。天照大神は地神の始主なり。俗に日神と称す。今に至るまで四方共に之を祭る。七年庚寅、始めて天社・国社・神戸を定む。十四年丁酉、[[伊豆国]]船を献ず。十七年庚子、始めて諸国に令して船を造らしむ。在位六十八年。寿百二十。是の時、[[熊野権現|熊野権現神]]始めて現る。[[徐福]]死して神と為り、国人今に至るまで之を祭る。}}
 
== 刊本 ==