「グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス」の版間の差分

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==生涯==
カエサル派として紀元前53年に執政官に選出されたが、政治的なスキャンダルに見舞われた。[[紀元前49年]]からのカエサル派と[[オプティマテス|元老院派]]との[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]ではカエサル側に立ち、[[ファルサルスの戦い]]でカエサル軍の中央部軍を率いて勝利に貢献した。戦後カエサルによって[[アナトリア半島|小アジア]]の統治を任されたが、[[ポントス]]と[[ボスポロス王国]]の王[[ファルナケス2世]]が内戦の間隙を突いて小アジアへ侵入を図り、ポントス軍と激突したが大敗を喫した。[[紀元前47年]]8月にカエサルが[[ゼラの戦い]]でファルナケス2世を破り失地を回復した。ドミティウスは失敗にも関わらず処罰は受けなかったが、その後の戦いで起用されることは無かった。
 
[[紀元前44年]]3月にカエサルが[[暗殺]]されたが、その前後の行動ははっきりしない。[[紀元前42年]]の[[フィリッピの戦い]]ではオクタウィアヌス及び[[マルクス・アントニウス]]側についたが、イオニア海での戦いでは[[グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前32年の執政官)|グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス]]に敗北して2個軍団を失った。結局、フィリッピの戦いでは[[三頭政治|第二回三頭政治]]側が勝利を収め、ドミティウスは再度の失敗にも関わらず、紀元前40年に2度目の執政官に選出された。[[紀元前39年]]から[[プロコンスル]]として3年間[[ヒスパニア]]総督として派遣され、無事に統治を終えた後にローマで凱旋式を行った。