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[[file:Bundesarchiv Bild 101I-141-1258-15, Russland-Mitte, Soldaten der französischen Legion, Fahne.jpg|thumb|ドイツ軍とともにソビエトに進撃したフランス義勇兵(1941年)]]
[[File:Bundesarchiv Bild 101III-Zschaeckel-206-35, Schlacht um Kursk, Panzer VI (Tiger I).jpg|thumb|right|史上最大の戦車戦となった[[クルスクの戦い]]]]
'''独ソ戦'''(どくソせん)は、[[第二次世界大戦]]中の[[1941年]]から[[1945年]]にかけて[[ドイツ]]を中心とする[[枢軸国|枢軸各国]]と[[ソビエト連邦]]との間で戦われた[[戦争]]を指す<ref>この項目はドイツ側にたった視点で編集されているので注意が必要である</ref>
 
大戦の当初は[[ポーランド侵攻|ポーランドを共に占領]]し協力関係であると考えられていたドイツとソビエトであったが、1941年6月22日に突如[[ドイツ国防軍]]がソビエト連邦に侵入し、戦争状態となった。当時のソ連は弱き国民を鼓舞するため、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]に勝利した[[1812年ロシア戦役|祖国戦争]]に擬えて'''[[大祖国戦争]]'''('''{{lang|ru|Великая Отечественная война}}''')と呼称。一方、ドイツ側では主に'''[[東部戦線]]'''と表現される。
 
== 概説 ==
もとより、信頼しあうわけでもない両列強が国境を接する状況において、もはや開戦は時間の問題となっていった。
 
[[アドルフ・ヒトラー]]はソ連との戦争は時間の問題であり[[ヨシフ・スターリン]]がドイツに対する戦争準備をしていると一方的に考えていた。石油資源を欲したドイツにおいては、ルーマニアの油田をソ連の手から防衛するためという理由もあった。また、当時イギリスはソ連と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の参戦をあてにしていたため、ヒトラーはソ連を倒せばイギリスが講和してくると考えた。
 
ドイツとソ連、そしてイギリス・アメリカという列強の複雑な思惑の中、ついに両列強は戦火を交えることとなる。
 
[[1941年]][[6月22日]]3時15分、ドイツ軍は作戦名「[[バルバロッサ作戦|バルバロッサ]]」の下にソ連を奇襲攻撃した。イギリス・フランスとの戦争は対ポーランド戦における同盟関係から結果的に始まったものであるが、対ソビエトの戦争はヒトラーにとって、ドイツの[[生存圏]]の拡大という[[ナチス]]の思想上、避けられないもので仕方がない事であった。この地政学的な発想とナチスの思想に根付いた人種的優越に基づく考え方争いにより、ドイツとソビエト連邦の二大列強の戦いは第二次世界大戦における他の戦線と異なり、民族の存亡を賭けた壮絶な戦いを繰り広げることとなるのである。フランスからは反共主義者が志願兵としてドイツ軍に加わった。ロシア人の反共主義者は[[ロシア国民解放軍]]や[[ロシア解放軍]]として共産主義者と戦った。
 
開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かった[[バルト三国|バルト]]地方や、過酷な共産党の政策から[[ウクライナ]]の住民は、規律がなく教育も低いソ連軍より、規律が正しく教育も高いドイツ陸軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。しかし、あくまで[[スラヴ民族]]と[[共産主義]]の完全根絶を目論むドイツの過酷な占領政策は親独的な地域住民の感情をも逆撫し、彼らを抵抗分子の[[赤軍パルチザン|パルチザン]]に変えてしまうものであった<ref> 村田 豊文 第二次大戦とヒトラー あかね書房 1978 </ref>。やがて攻勢に回る側となった赤軍は、恨み辛みそれまでにおこなわれたさまざまな蛮行を目ドイツ当たり向け、ドイツ国内に進入すると報復的な殺戮・略奪・暴行を行うこととなる。
 
近代戦という破壊的な兵器の登場の上に、他民族の支配という思想・信条が加えられたこの戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1128万人、ドイツ兵が500万人である。民間人の犠牲者をいれるとソ連は2000~3000万人が死亡し、ドイツは約600~1000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われている。初期のソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している。戦争終了後のドイツ兵の捕虜300万人うち[[シベリア抑留]]などで死亡したのが100万人である。
== 経過 ==
=== 1941年 ===
6月22日、ドイツ・ソ連国境よりドイツ軍の侵攻が開始。開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソビエト軍を圧倒し、[[北方軍集団]]では[[レニングラード包囲戦|レニングラードを包囲]]、中央軍集団は開戦1ヶ月で[[ミンスク]]を占領する快進撃を続けた。また、ソ連軍の航空部隊はドイツ軍の爆撃により惨めにも壊滅し、制空権はドイツ軍が掌握した。しかし南方軍集団は、投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、進撃が遅れ気味であった。これは、近年では開戦前ドイツに対し先制攻撃を考えていたソ連軍が南部に兵力を集中させていたからという説がある([[バルバロッサ作戦#奇襲成功の要因]]の項を参照)。
 
その為、8月には[[スモレンスク]]を陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援した。これによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連軍部隊は惨めにも壊滅し、[[キエフ]]、[[ハリコフ]]などが陥落した。これにより中央軍集団の首都[[モスクワ]]への進撃が約1ヵ月ロスされ、9月に[[モスクワの戦い|モスクワ攻略(タイフーン作戦)]]に乗り出す。しかし、例年より早い冬により、[[クレムリン]]まであと数十キロのところまで迫ったが、ドイツ軍の攻勢は頓挫し、モスクワ攻略は失敗した。短期決戦を挑んだドイツの目論見は惜しくも外れ持久戦の様相を呈する。電撃戦を続けてきたナチス・ドイツにとっては初めてのケースであり、補給路が延び切った上、そのため冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。
 
その頃、ソ連側は[[リヒャルト・ゾルゲ]]など日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、[[日本軍]]が参戦する可能性は無いと一方的に確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊を[[モスクワ]]周辺に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団がソ連の強制によって戦線に投入された。この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅したが、ソ連軍の奮闘を示すエピソードである。モンゴル国内においては反感が強い
 
冬季戦に長けたこれらの部隊は各地でドイツ軍を食い止めることに成功し、12月初旬から冬季大反攻を開始しドイツ軍をモスクワ正面から後退させる事に成功した。しかし、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の死守命令によって撤退できないドイツ軍の必死の抵抗と自軍の稚拙<ref>幼稚で未熟なこと。また、そのさま。</ref>な作戦によりソ連軍は各個撃破され、辛うじて戦線崩壊は回避された。
 
ソ連は貧弱ながらも出来うる限り工場の生産能力の移動を行い、のべ数百万両とも言われる貨物列車によりドイツの手の届かないウラル山脈近くにまで移動させることになんとか成功した。このことにより一時的に生産力は格段に低下することとなったが、やがてこの安全な地から大量の戦車が生み出されることになる。
 
=== 1942年 ===
前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になったのだ。1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。南部戦線にて、[[ヴォルガ川]]への到達とコーカサス地方の[[石油]]資源獲得を目的とした[[ブラウ作戦]]が発動される。作戦開始当初は快進撃が続くが、赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。
 
ヴォルガ川の要衝の地における[[スターリングラード攻防戦]]において、ドイツ軍は、市街戦での消耗戦に陥る。また、コーカサスを目指した軍集団は、嶮しい山岳地帯とソ連軍の抵抗により、こちらの進撃も行きづまってしまった<ref>残念がること。また、そのさま。</ref>。冬季が訪れると11月には、再びソ連軍の激烈な反撃により枢軸軍33万人がスターリングラードに包囲されてしまった<ref>残念がること。また、そのさま。</ref>
 
ヒトラーはあくまで空輸を通じて徹底抗戦を命じるが、1943年1月後半に総司令官の[[フリードリヒ・パウルス|パウルス]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]以下約10万人の枢軸軍は卑怯にも投降し捕虜となる。
 
=== 1943年 ===
スターリングラードの失敗は決定的な勝利の可能性を失しただけでなく、同盟国に与えた影響が大きかった。なによりも人的資源の余裕のないドイツにとってこの敗北の影響は大きく、予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施され中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された([[クルスクの戦い]])。諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソビエト軍の対戦車陣地に進撃をはばまれ、ドイツ軍は多大の出血を強いられた。
 
時を同じくして[[シチリア]]への[[ハスキー作戦|連合軍上陸]]の報に作戦は決戦を待たずして中止される。以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連軍に奪回された。
 
=== 1944年 ===
=== 1945年 ===
 
2月14日、ハンガリーの首都[[ブダペスト]]が陥落し、ハンガリーのほぼ全土がソ連軍の支配下となった。ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指してハンガリー人と共に[[春の目覚め作戦]]を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。
 
4月16日、[[ゲオルギー・ジューコフ|ジューコフ]]元帥の[[ベルリンの戦い|ベルリン総攻撃]]が開始される。4月30日、[[アドルフ・ヒトラーの死|ヒトラーが自殺]]。5月2日、ベルリンは陥落した。後継大統領に指名された[[カール・デーニッツ]]元帥の[[フレンスブルク政府]]は降伏を決断し、5月7日にフランスの[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で降伏文書の調印が行われ、5月8日午後11時1分に休戦が発効する事になった。
 
== 開戦までの両国の関係 ==
[[第一次世界大戦]]後、世界の孤児であったドイツとソ連は1922年、[[ラパッロ条約 (1922年)|ラパッロ条約]]により国交を回復させた。当時のドイツは[[ヴェルサイユ条約]]により、過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されていた。経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。一方ソ連共産主義国家として孤立し、[[シベリア出兵]]などは世界列強各国政府から非難軍事干渉を受けた。ドイツには資源と場所が皆無だった。ソ連は資源と場所は恵まれていたが、技術が乏しく脳がなかった。互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、ドイツとソ連は手を結んでしばし蜜月の時を刻む。
 
1933年にヒトラーが政権を握った。ヒトラーは反共主義者であり、両国の政権政党は[[イデオロギー]]上で対立していた。双方の独裁者はお互いを「人類の敵」、「悪魔」などと罵り合った一方、互いの利害のために利用することもあった。スペイン内戦では、代理戦争という形で両国は対決した。また、[[ミハイル・トゥハチェフスキー|トゥハチェフスキー]]の粛清の一因に、SD(ナチス党情報機関)長官[[ラインハルト・ハイドリヒ|ハイドリヒ]]の謀略があったともされる。その後、一方の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は、イギリスのドイツに対する[[宥和政策]]をみてイギリスとドイツが対ソ連包囲網を結んでいるのではないかとの被害妄想を愚にも膨ませた。また、他方のヒトラーは[[二正面作戦]]を避けることを目論んで、相互に[[独ソ不可侵条約]]を結ぶこととなる。
 
この間にソ連は、ドイツに対して[[ヴェルサイユ条約]]が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用や[[バトル・オブ・ブリテン|イギリス空爆]]のためのレーダー技術の提供などを行い、更にソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた。この行為は最低な事として現在も世界から非難されソ連の後継の国ロシアを見る場合でも同じである
 
ところが、戦争を避けることはもともと不可能であった。というのも、ドイツとソ連がともに独裁国家であったこと、「[[我が闘争]]」にも記述されている通り、ヒトラーが独ソ戦の真の目的をソ連西部の[[植民地]]化としていたこと、ヒトラーがゲルマン民族至上主義を唱え掲げていたこと、共産主義思想が世界に国境はないとするものであったこと、ドイツの資源が枯渇していたこと、などの理由があったためである。なお、戦争間際まで資源がソ連からドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。
 
一方でソ連は軍備増強も行っていた。開戦前夜の1941年の3月から4月にかけ、機械化歩兵師団20個師団を編成し、暗号系統を変更した。ドイツ国防軍情報部はこれを開戦準備と受け止めている。また、欧米でも比類のない大規模な航空機工場が存在しており、練度の面でも高いものがあるとドイツ空軍技術視察団は報告している。ヒトラーは後に、「この報告が最終的にソ連即時攻撃を決心させる要因になった。」と述懐している<ref>「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」[[児島襄]]([[文藝春秋]]社)ISBN 978-4167141387</ref>。
 
[[バルバロッサ作戦]]の準備を告げる情報は、イギリス政府や軍の情報部などから様々な形で集まった。しかし、スターリンを始めとするソ連軍は、これらの情報を欺瞞情報であるとして退けた。ドイツ軍への挑発につながるため、独ソ国境での防衛準備も目立って行われなかった。このスターリンやソ連軍の判断は今なお歴史家の間で疑問とされ馬鹿にされている。
 
== 戦場としてのソビエト・東部戦線 ==
これまでにも機甲師団の進軍においての故障率は対オーストリアへの進駐の段階ですら看過できない状態であり、戦闘期間が長引けばそれは機甲師団を軸に戦争の計画を立てている者にとっては恐るべき結果が待っていたといっても過言ではない。部隊の数を増やすことなどままならず、維持することすら多くの努力をもってなされていた状態であった。
 
ドイツの戦車は、ドイツ気質を体現するように最善を求めて作り上げた精密機械であった。電撃戦による短期決戦には対応できるが、長期持久戦を維持するには膨大な人的資源を必要とした。ロシアの冬は精密機械であるドイツ戦車を使用不能にするほど汚く過酷な大地であった。驚くべきことに、ドイツはその気質を体現するかのように整備・回収の能力を保持していたといえるだろう。だがソ連の大地は汚く苛酷であり、あらゆるものが故障し、放棄される運命にあった。そして補給の混乱がそれに輪をかけたのである。必要な部品は届けられず、他の兵器を活用するために部品を抜かれる兵器も多かった。
 
ナチス・ドイツのそれまでの対戦国はドイツと[[イギリス|同等]]もしくは[[フランス|劣勢]]であると考えられる国々であったのに対し、ソビエトは資源・生産力・人口においてドイツを圧倒していた(誇れるものがそれしかない、情けない国であると世界では見られている)。戦争が長引けば、国力の差がドイツを日々圧倒してくることは間違いなく、それはナチス・ドイツの敗北を意味していた。すでに同等以上の国力を誇っている英米連合国との戦争をしている状況において、西部戦線・北アフリカ戦線に加えて東部戦線という三つの戦線を維持し続けることはナチス・ドイツにとって過大な負担となることは明白であった。
 
このような状況・段階にもかかわらずヒトラーのソビエトに対する認識はあくまでも過小評価であり、バルバロッサ開始時だけでなくブラウ開始後においても、ソビエト・赤軍の戦力の低下を認識し、それを参謀本部にも確認する状況であった。確かにソビエト・赤軍の[[冬戦争|対フィンランド戦]]での戦力比に対しての戦闘の状況、その元となる赤軍の総合的な戦力の低下はまぬがれなかった。まして独ソ戦初期における損害は膨大であり戦力の低下は間違いなかった。だが、赤軍の予備兵力はナチス・ドイツが想定するよりもはるかに膨大であった。もし勝利を得られることがあるとすれば、圧倒的な電撃戦による勝利か、開戦1年目のような捕虜・軍事物資の放棄が常に続くような状況でない限り勝利は遠かったのだ。
陸・海・空という総合的な戦力が問われるわけではない独ソ戦において、無骨で洗練されてはいないが量産性に優れたロシアの大地に最適な[[T-34]]戦車を大量生産しうる体制を確立した。その性能はさまざまな部分において欠陥が指摘されているが、独ソ戦という状況、かつロシアの平原においては既存のドイツ戦車を駆逐しうるほどの性能と生産性と整備性を維持している驚異的な戦闘車両であった。ドイツから指摘しうる欠陥は砲塔、砲など着実に変更・修正され、やがて三人乗りの大型砲塔に85mmの砲を積むことによって中戦車としてはその量産性をもってしてドイツ軍を圧倒することになるのである。それに及ばず、ソ連空軍は襲撃機といった対地攻撃に特化した航空機を量産し対抗した。
 
赤軍はその膨大な予備兵力によって、圧倒的な敗北から敗北を理解し、攻勢の失敗から攻勢のなんたるかをやっと理解した。そして、予備兵力にかげりが見られるかと思われる段階において、もはや予備兵力のないナチス・ドイツに対して最大の大攻勢を行うのである。
 
=== 交通事情 ===
 
== 民族問題 ==
ナチス・ドイツが民族国家の確立のために戦争を始めたこの戦いは、多民族国家であるソビエト連邦に与えた影響は軽視出来る物ではなかった。開戦当初のナチス・ドイツへの協力とパルチザン化にはじまり、コサック問題、ブラウ作戦時のコーカサス地方など、多民族国家の問題・矛盾を炙り出す戦争でありこの戦争の意義は大きいものである。世界的な観点から見場合、この戦争に賛成をする評論家は多い
 
== 文献 ==