「流行歌」の版間の差分

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しかし一方で音楽愛好家の間にはクラシック音楽を至上として考え、大衆の中から生まれて来た流行歌を卑俗なものとして蔑む傾向が強くあり、時に過剰な排斥や誹謗中傷が行われることもあった。だが、電気吹込み時代の昭和流行歌はクラシック・洋楽系演奏家による歌唱が主流となり、当時の中間層の娯楽である歓楽街、家庭でも聴けるような流行歌も作られている。
 
ただし、音楽学校出身者やオペラ歌手が流行歌をレコードに吹込む時代とはいえ、音楽学校卒業前に流行歌をレコードに吹込むことは禁止された。特に音楽学校は流行歌でのアルバイトを禁じ、事実[[東京音楽学校]](現・[[東京藝術大学]]音楽学部)に通っていた[[藤山一郎]]は一時活動休止を余儀なくされ、その後輩である[[松平晃]]は同様のアルバイト発覚により退学している。
 
それ以外にも男女の自由恋愛や安易に身を売る女性などをテーマにした唄もあることから、風紀上好ましくないと言う意見も多かった。このため学校などで児童・生徒が唄うことは禁止されていた。
 
戦後もその傾向は続き、昭和24(1949)年にまだ12歳に過ぎない[[美空ひばり]]がデビューした時にも「あんなに幼い少女に流行歌を歌わせるとは何事か」という批判も少なからずあったという。
===二村定一と佐藤千夜子===
 
「流行り唄」から、流行歌への移行の胎動が見られ始めるのは、昭和3(1928)年のことである。日本ビクター、日本コロムビアなど外資系レコード産業の成立によって、マイクロフォンを使用した電気吹込みによるレコード歌謡が誕生した。大正時代の書生節・流行り唄と異なりレコード会社が企画・製作し宣伝によって大衆に選択させる仕組みが生まれた。その中で[[浅草オペラ]]の出身の[[二村定一]]が流行歌への先鞭を付けたのである。二村は芸の一部として歌を用い、大正末期からジャズ・ソングをニッポノホンで吹込み、その他にナンセンスなコミックソングを多く歌っていたが、昭和3年に出したジャズ(現在の[[イージーリスニング]]にあたる軽音楽の総称)に日本語詞をつけた「[[私の青空 (歌)|あお空]]」「[[アラビヤの唄]]」のヒットにより、井田一郎のバンドでジャズ歌手としての活動も開始する。
 
一方、声楽家であった[[佐藤千夜子]]は、ビクターで昭和3年発売の「[[波浮の港]]」を吹込み本格的な流行歌手として登場した。藤原義江が米国ビクターで吹込んだ赤盤と併せてかなりのレコード売り上げをしめした。昭和4(1929)年に「[[東京行進曲]]」をヒットさせ歌謡界の女王として「日本最初のレコード歌手」の栄誉を手にすることになる。彼女を昭和流行歌の嚆矢とする説があるゆえんである。
===藤山一郎の登場と第一世代===
 
佐藤のヒットから2年後の昭和6(1931)年、[[日本コロムビア|コロムビア]]でアルバイトとして流行歌の制作に携わっていた[[古賀政男]]は、同じくアルバイトであった[[東京音楽学校]](現東京芸術大学音楽部)の学生・[[藤山一郎]]と組んで「酒は涙か溜息か」を発表した。ごく短い歌であったが、それまでの大衆歌謡と全く異なる音楽性、そして電気マイクの特質を利用した「クルーン唱法」による情感あふれる歌唱に人々は魅了され、同曲は大きなヒットを飛ばした。藤山は本名増永丈夫といって音楽学校が将来を期待するクラシック音楽生だった。声楽技術の正統な解釈による歌唱は日本語の質感を高め、古賀政男のギター曲の魅力を広めることになった。
 
これがきっかけとなり、同様の手法による歌が各レコード会社で制作されるようになり、歌手も次々とデビューした。当初「流行小唄」と言われたが一時的なもので、やがて「流行歌」の名称が定着、世間に瞬く間に広がることとなった。
 
初期の頃は新興分野ということもありレコード会社の勢力も歌手の人気もはっきりしなかったが、昭和6年の古賀メロディーのヒットから昭和11年頃になると大体の勢力範囲が決まり始め、以下の3社が大手の中でも特に大きな勢力として天下を三分することになる。
 
*コロムビア
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