「ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ」の版間の差分

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| 公式サイト =
| 主な作品 =
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー監督賞|監督賞]]'''<br />[[第22回アカデミー賞|1949年]]『[[三人の妻への手紙]]』<br />[[第23回アカデミー賞|1950年]]『[[イヴの総て]]』<br />'''[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]'''<br />1949年『三人の妻への手紙』<br />1950年『イヴの総て』
| 備考 =
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脚本家、製作者として名声を得たマンキーウィッツだが、1940年代に入り、[[プレストン・スタージェス]]、[[ジョン・ヒューストン]]、[[ビリー・ワイルダー]]といった脚本畑出身の映画監督が華々しく登場していた。そしてマンキーウィッツも[[1946年]]に病気で降板した[[エルンスト・ルビッチ]]監督に代わってメガホンを取った『呪われた城』で念願だった映画監督としてデビューする。
 
以降は脚本家として培った、洗練された台詞回しと知的で文学的な雰囲気を漂わせる作風で、[[1947年]]の『幽霊と未亡人』と[[1949年]]の『他人の家』など上質の娯楽映画を次々と発表、興行的にも批評的にも高い評価を得て、監督としても大成功を収める。そして1949年の『三人の妻への手紙』と[[1950年]]の『イヴの総て』でそれぞれ[[アカデミー監督賞]]と[[アカデミー脚賞|脚賞]]を2回ずつ受賞、2年間で4つのオスカーを獲得した記録はいまだに破られていない。特に『イヴの総て』では[[アカデミー作品賞]]の栄冠に輝いた。
 
[[1950年]]からは[[全米監督協会]]の会長を務めるが、革新的な考えを持っていた為、[[セシル・B・デミル]]をはじめとする超保守派から猛反発を受ける<ref name="JF">[http://www.mube.jp/pages/milkhall_1.html 名前はジョン・フォード。西部劇を撮っています]、[[蓮實重彦]]、2002年12月11日、2009年12月13日閲覧。</ref>。同年10月22日の深夜まで及んだ臨時総会での[[ジョン・フォード]]の発言で、マンキーウィッツは会長を留任し、デミルが排斥される結果となる<ref name="JF" />。