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『[[史記]]』呉太伯世家によると、呉の初代王[[寿夢]]の長子は[[諸樊]]であった。寿夢にはこれ以外に3人の子がおり、中でも末子の[[季札]]は賢人として名が高かった。父・寿夢もそれに期待して季札を王にしたいと願っていた。しかし季札は兄を差し置いて自分が王位に即くことに抵抗し、受けようとしなかった。そこでまず諸樊が王位を継ぎ、その後を第2子の[[余祭]]が継ぐなど兄弟継承の順に続けて、最後に季札に王位が回るようにした。しかし季札は第3子の[[余昧]]から王位を譲られようとした所で、これを拒否して逃亡してしまい、王位は結局、余昧の子である[[呉王僚|僚]]へと継承されることになった。
これに光は不満を抱いた。今まで兄弟の間で順番に王位を回してきたのだから季札が王になるのならともかく、季札が
しかし、『[[春秋左氏伝]]』では、寿夢(乗)が逝去し、後を継いだ長男の諸樊(遏)は[[紀元前548年]]の[[冬]]12月に[[楚 (春秋)|楚]]に討伐し、楚将で巣の[[牛臣]]と戦い[[戦死|戦没]]した。次弟の余祭は[[紀元前544年]](『史記』では[[紀元前531年]]に逝去)、脚を切断され[[門衛]]にされた[[越]]の捕虜によって惨殺された。三弟の余昧(夷末)は[[紀元前527年]]の[[正月]]に逝去した。四弟の僚(州于 / 『史記』では余昧の息子)がその後を継いだと記されている。つまり、季札は僚の叔父ではなく弟であり(同時に僚は季札のすぐ上の兄である)、諸樊の子である闔閭(光)にとっても[[いとこ]]ではなく、叔父に当たる僚に対してクーデターを起こしたことになり、『史記』との記述が食い違う部分が多く、呉王僚に至る「兄弟相続」としては順当という見方もある。
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