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五代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]の時代、[[霊元天皇]]の[[後宮]]で常盤井の局という名で仕えており、宮中随一の才媛と呼ばれていた。[[貞享]]二年には、綱吉と[[瑞春院|お伝の方]]の間にできた[[鶴姫 (徳川家)|鶴姫]]付上臈として紀州家に入る。その後、江戸城本丸大奥へ入った。または、御台所[[鷹司信子]]の姉で中宮の[[鷹司房子]]の推薦で、信子付上臈御年寄として大奥入りした、とされる。
 
江戸城大奥に入ってから名前を右衛門佐と改め、将軍付[[上臈御年寄]]として、大奥の総取締をったと考えられている。その後は[[大典侍]]、[[清心院|新典侍]]といった公家の姫を綱吉の側室として迎え入れた。<!--また、[[正親町町子]]も右衛門佐の紹介で大奥に入り、鷹司信子の斡旋により[[柳沢吉保]]の側室となった。-->
 
1706年、57歳で死去。<!--法名は心光院殿古鑑貞円大姉、心光院古媼貞円。-->墓所は東京都新宿区の[[月桂寺]]にある。