「三職推任問題」の版間の差分

信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。[[谷口克広]]は、各説を以下のように分類している<ref>以降、出典:谷口克広 『検証本能寺の変』 138-139頁、ISBN 978-4642056328</ref>。
* 対立説…[[秋田弘毅]]、[[朝尾直弘]]、[[池亨]]、[[今谷明]]、[[奥野高廣]]、[[立花京子]]、[[藤木久志]]、[[藤田達生]]
* 融和説…[[桐野作人]]、谷口克広、[[橋本政宣]]、[[堀新]]、[[三鬼清一郎]]、[[山本博文]]、[[脇田修]]、[[高澤等]]
 
 
三職推任問題については、対立説(秋田、朝尾、今谷、藤木ら)では、信長が三職推任に明確に反応しなかったのは、朝廷離れの姿勢、もしくは朝廷への圧迫を示したものとする。秋田は、「天皇を自分の権力機構に組み込もうとするため」とみ、朝尾は「官位制度の枠外に立つことで朝廷の枠組みから解放されようとした」とし、今谷は「官職就任を天皇の譲位と交換条件にしたため」としている。融和説(谷口、橋本、堀、脇田ら)では、朝廷離れの姿勢を示したものではないとされる。谷口は、右近衛中将の[[足利義昭]]への対抗として右近衛大将<ref>右近衛大将は[[源頼朝]]ゆかりの官職である。</ref>に任官した以上、信長にとって官位は不要だったとする。ほか、宮廷儀礼から解放されるため(脇田説)、織田家当主とした信忠の方の官位昇進を望んだため(堀、谷口の説)、非公式に太政大臣就任を了承していた(橋本、脇田<ref>本能寺の変直後の[[7月17日_(旧暦)|7月17日]]に出された羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙には信長を「大相国」と呼んでいるが、太政大臣贈官が宮中で論じられたのは3ヵ月後の事であり、さらにその贈官の宣命には「重而太政大臣」の一文があり二度太政大臣の辞令が出されたと解される事、変の直前の[[近衛前久]]の太政大臣辞任が急に決まった事を根拠としている。</ref>説)などの見方がある。高澤は「[[御湯殿上日記]]に、信長は二度目の馬揃えの後に[[誠仁親王]]の即位の時に官位を受けると明言した記事があることを指摘し、単に時期的なもので問題というほどのものではないとする。
 
 
融和説(谷口、橋本、堀、脇田ら)では、朝廷離れの姿勢を示したものではないとされる。谷口は、右近衛中将の[[足利義昭]]への対抗として右近衛大将<ref>右近衛大将は[[源頼朝]]ゆかりの官職である。</ref>に任官した以上、信長にとって官位は不要だったとする。ほか、宮廷儀礼から解放されるため(脇田説)、織田家当主とした信忠の方の官位昇進を望んだため(堀、谷口の説)、非公式に太政大臣就任を了承していた(橋本、脇田<ref>本能寺の変直後の[[7月17日_(旧暦)|7月17日]]に出された羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙には信長を「大相国」と呼んでいるが、太政大臣贈官が宮中で論じられたのは3ヵ月後の事であり、さらにその贈官の宣命には「重而太政大臣」の一文があり二度太政大臣の辞令が出されたと解される事、変の直前の[[近衛前久]]の太政大臣辞任が急に決まった事を根拠としている。</ref>説)などの見方がある。
 
三職推任問題については、双方の説も朝廷主導と見るのが有力であったが、立花京子が信長の意思であるとの新説を提唱し、論争となった(下記)。なお、三職推任問題については、条件提示が本能寺の変直前であったために時間がなくて返答できなかったとも考えられている。
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