削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
8行目:
やがて[[司徒]]の[[黄瓊]]が招聘し、[[太常]]の[[趙典]]が有道<ref>後漢の人材推挙法で、'''賢良'''、'''方正'''と同じく制科の一つ。主に天変地異が起きた際、政治を改める人材を得るために詔勅によって三公・九卿・太守などに推挙が命じられた。</ref>に推挙したが、応じなかった。郭泰はただ人品の長所だけを褒め、欠点を論じることをしなかった。当時、[[宦官]]が政権を握って非難する事が出来なかったためであり、[[清談]]の始めとされる。[[党錮の禁|党錮の禍]]によって名士達が多く被害を受けたが、郭泰と袁閎だけが禍を免れた。交際を絶って教授に専念し、弟子は1000人を数えた。
 
[[建寧 (漢)|建寧]]元年([[168年]])、[[陳蕃]]、[[竇武]]が宦官との抗争に敗れて害されると、郭泰は、「人が亡びて国が衰亡する、臣民はいずこに帰するのか<ref>原文、「『人之云亡、邦國殄瘁』。『瞻烏爰止、不知于誰之屋』耳。」(中華書局発刊《後漢書》点校)。前者は[[詩経]]大雅の詞、後者は小雅の詞。</ref>。」と嘆いた。明くる建寧2年([[169年]])春、家で死去した。享年42。四方の[[士大夫|士人]]、1000人以上が会葬に集った。同志者達が共に石碑を立て、[[蔡邕]]が筆を取った。その後、蔡邕は[[盧植]]に言った。「私は多くの碑銘を書いたが、(その文章は装飾が多く)みな徳に恥じるものだった。ただ郭有道(郭泰)のものだけが恥じるところがない」。
 
郭泰は数多くの人物を評価して世に出し、党人をはじめとして当時の名士達がその門に集った。特に[[王允]]を、「一日千里をゆき、王佐の才なり」と評価した事が知られる。郷里の界休(現山西省[[介休市]])は[[春秋時代]][[晋 (春秋)|晋]]の[[介子推]]、後漢の郭泰、[[北宋]]の[[文彦博]]を輩出したことから「三賢故里」と呼ばれている。