削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
12行目:
前述の通り、北沃沮は『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』東沃沮伝の中に見える名称で、別名で'''置溝婁'''ともいう。南沃沮(北沃沮の対比での表現。東沃沮そのものを指す)から800里離れるが、南北ともに同じ習俗であり、挹婁と接していた。
*「置溝婁」を「買溝」と書いている例があることから、「置溝婁」は誤写で、正しくは「買溝婁」であるとする説があり、有力説である。もし「置溝婁」ならば現地語で「北城」または「木城」の意味であり(戦前には日本語の「津軽」との関係を考える説もあった)、「買溝婁」ならば現地語で「水城」の意味となる。
*きわめて少数意見ではあるが両方とも実在で二つの別の地名とする説もある(李炳涛説)。この場合「置溝婁」は現在の[[咸鏡北道]]の[[鏡城郡]]、「買溝婁」は[[江原道 (北)|江原道]]の[[文川市|文川]]に比定される。李炳涛によれば、毋丘倹に追撃された時の高句麗王宮の逃走路は、まず「買溝婁」([[文川]])へ入りそこから北上して「置溝婁」([[鏡城]])に到達したというのである。
 
== 日本人(倭人)について ==