「恭帝侗」の版間の差分

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段達が礼部尚書・右翊衛大将軍となり、王世充が吏部尚書・左翊衛大将軍となり、元文都が内史令・左驍衛大将軍となり、盧楚が内史令となり、皇甫無逸が兵部尚書・右武衛大将軍となり、郭文懿が内史侍郎となり、趙長文が黄門侍郎となって、朝廷を牛耳った。ときに洛陽の人々は段達らを「七貴」と称した。七貴のあいだは険悪で、元文都・盧楚・郭文懿・趙長文は王世充に殺害され、皇甫無逸は[[長安]]に逃れて[[唐]]に帰順した。
 
王世充が李密を破って実権を完全に掌握すると、[[619年]]5月には楊侗は王世充に[[禅譲]]することを余儀なくされた。翌月、楊侗は服毒自殺を命じられた。楊侗は「生まれ変わっても皇帝の家は生まれ変わらぬように」と遺言し服毒するが死ななかったので縊りされた。
 
== 伝記資料 ==