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[[2011年]]には、[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]に起因する[[福島第一原子力発電所事故]]が発生した。[[国際原子力事象評価尺度]]に基づく評価は確定していないが、[[原子力安全・保安院]]による暫定評価は最悪のレベル7となっており、日本における最大規模の原子力事故である<ref>[http://scienceportal.jp/news/daily/1104/1104121.html SciencePortal 福島第一原発事故評価チェルノブイリと同じレベル7に] - 2011年6月14日閲覧</ref>。
 
* 参考文献 [http://www.rieti.go.jp/jp/publications/pdp/09p002.pdf#search='日本の原子力政策' 日本の原子力政策の変遷と国際協調に関する歴史的考察 独立行政法人経済産業研究所 相楽希美]
 
=== 1940 - 50年代 ===
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1954年5月に、内閣の諮問機関として「原子力平和利用準備委員会」が設置され、先に通過した原子力予算の使い道を検討し、'''小型原子炉の建設'''と'''放射能障害の研究'''の二項目を原子力の平和利用への目標として設定した。 そのころ国際的な関心事は、ロシア、イギリスの実用的な動力炉の成果に注目が集まっていた。 アメリカは、日本にも期待を示し、燃料供給から炉の設計まで、一貫したコストパフォーマンスの良い経営戦略に注目していた。 
 
そのような雰囲気の中、1955年12月、自民・社会の両党は協力して、「[[原子力基本法]]」、「[[原子力委員会設置法]]」、「[[原子力局設置法]]」といわれる、原子力三法案をスピード可決させ、政府は「原子力平和利用準備委員会」を解消し、後に発足する「原子力委員会」に役目を預けた。  1956年1月、正力松太郎国務大臣を長とする原子力委員会は、「原子力の平和利用」および「原子力の国際協力」を確認し、日本の従来の研究テーマであった「[[アイソトープ]]利用の実用化」に加えて「'''5年以内に原子力発電を実現させる'''」という目標を発表した。 さらに正力委員長は、目標達成には産業界の協力が不可欠として、「原子力産業会議」を開催し、2月に首相官邸に71名の財界の代表を招いた。 3月1日には、[[日本工業クラブ]]に「日本原子力産業会」が発足初代会長は、[[電気事業連合会]]の菅禮之助([[東京電力]]会長)が就任した。 
 
一方、動力として[[濃縮ウラン]]燃料がアメリカから貸与されることとなり、保管場所および研究所の設置場所が必要となった。受け入れ機関として1954年7月に財団法人[[日本原子力研究所]]が急遽発足され、候補地が選定された。 当時の国内世論は原子力を歓迎するムードであったため、誘致合戦の末、[[東海村]]が選ばれたと言われている。
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導入は、アメリカ製とイギリス製のふたつの選択があったが、1kW4円で発電可能なイギリス製を発注することが決定した。 日本で最初の動力炉について、河野一郎経済企画庁長官は、リスクが大きいとして、国が管理すべきと考えていたが、委員長であった正力は、電力会社9社と電源開発を中心に運用すべきと、対立したが、1957年8月27日、東海村で日本発の実験炉JRR-1が臨界に達したことで、イギリスからの動力炉は財界が運用することにまとまった。 11月には日本原子力発電株式会社が誕生した。 このような経緯で日本原子力発電株式会社の日本原電東海原子力発電所(日本初商用原子炉)にはイギリス製コールダーホール改良型炉の建設が決まった。
 
しかし、実際に導入してみるとコールダーホール改良型炉は商用には問題点が多く、国内ウラン鉱開発も容易ではないことが明らかになってきた<ref name="Y111">吉岡斉『原子力の社会史』 p(1999年、朝日新聞社)p.111-p.118 吉岡斉</ref>。日本学術会議は1960年1月と3月の会議で、原子力開発は、もっと基礎研究に力を入れて段階的に応用研究へ進んだ方が良いという意見が相次いでいた。
 
*参考文献 『原子力のあゆみ』原子力のあゆみ50年代 日本原子力産業会議 ISBN 4-88911-020-8-C0002
 
=== 1960~1970年代 ===
1960年代はエネルギーは固体の石炭から液体の石油に比重がシフトが起こり、[[火力発電]]のコストパフォーマンスが向上したことで、原発の採算性が課題とされていた。
 [[中曽根康弘]]が科学技術庁長官が就任して、早々に計画の見直しが検討され、1961年2月に「新・長期計画」が発表された。「新・長期計画」は前期10年、後期10年の20年計画であり、最初の10年は、商用原発の発電規模を3基100万KW、後の10年で、火力の30%程度(650~850万KW)を目標と設定し、当時造船大国であった日本の状況を考慮して、新たに巨大[[原子力船]]の開発建造が盛り込まれていた<ref name="原子力のあゆみ60-70">『原子力のあゆみ(原子力のあゆみ60年代~70年代)』(社団法人日本原子力産業会議</ref>。
 
日本の商用貨物船の将来は、これまでないほどに構造距離の延長化、大型化および高速性が要求されると見込まれており、[[ソ連|ソビエト連邦]]とアメリカが推進機関に原子力を搭載した船舶『[[レーニン号]]』『[[サバンナ号]]』を就航させたことも刺激となって、原子力が推進力として注目される状況となっていた。 1963年8月、特殊法人として[[日本原子力船開発事業団]]が発足し、建造計画が始まる。 当初の計画は南洋観測船で予算は36億円として入札を行ったが、国内メーカーは、構造の特殊性に金額が見合わないとして敬遠されたため、計画を変更し、収益性にも配慮して、船種を「ウラン燃料も輸送可能な特殊貨物船」とし、船体を29億円で'''石川島播磨重工'''に、原子炉を27億円で三菱重工業・神戸造船所に決定。建造は順調に進み、定系港は[[青森県]]の[[むつ市]]に決定し、船名は市にちなんで[[原子力船むつ|むつ (原子力船)]]と命名されて、1969年6月に(原子炉を起動しない状態で)進水式が行われた<ref name="原子力のあゆみ60-70" />。
 
「新・長期計画」が発表されると、アメリカの[[ゼネラル・エレクトリック]](GE社)から、魅力的な価格の[[軽水炉]]と「'''ターンキー契約'''」が日本に提示された。 ターンキー契約とは、最初に固定された売却金額が提示されて、その金額で建造と臨界までをGEが請負い、その後事業者はマニュアルに従って運用するだけで良いという契約方式であった。 原子力委員会も61年2月の時点で、日本の第二号の商用原子発電は軽水炉がふさわしいと考えていたことから、契約が相次いだ。 原電は第二号炉として、1961年に[[福井県]][[敦河市]]を選んで、建造は東芝・日立・GEのグループが請け負う契約を結んだ。 敦河発電所は70年3月から営業運転に入った。 第一号のコールダーホール改良型よりも、コスト的には単位出力あたり2.7倍優位だったとされている。[[関西電力]]は1966年4月[[福井県]][[美浜町]]に[[三菱重工]]と[[ウエスチング・ハウス]](WH)社のグループの軽水炉が、[[東京電力]]は1966年5月には、[[東芝]]・[[日立]]・GE社のグループの軽水炉がそれぞれ「ターンキー契約」方式で採用された<ref name="Y111" />。
 
1972年当時の日本の原子力発電の状況は、5基182万3000kW、全体の発電量の3%以下であったがまだまだ小規模な運転停止が多く、渇水による水力発電の発電量の低下と、火力発電所から発生する光化学スモッグが社会的問題となっていた。また長引く[[中東戦争]]の影響で、石油の価格も不安定であった。 日本の安定的なエネルギー確保を目的として、燃料確保からエネルギー効率の向上まで日本のエネルギー政策を一元化するために1973年7月、通産省の鉱山石炭局と公益事業局が協力して、資源エネルギー省が誕生する。 その年の11月第四次[[中東戦争]]が勃発して[[アラブ石油輸出国機構]](OPEC)が原油価格を70%も引き上げたことから日本にも深刻な[[オイルショック]]が到来し、国際的にも国内的にも代替エネルギーとして原子力発電の重要性が高まった。 日本の政策として原子力が優先されたために、1975年には原子力の発電量は10基530万kWに拡大し、日本は(ソ連を除いて)アメリカ、イギリスに次ぐ3番目の原発大国に成長した<ref name="原子力のあゆみ60-70" />。
 
しかし建造した原子炉は沸騰水型軽水炉では冷却水が流れるステンレス配管の[[金属疲労]]による亀裂、加圧水型軽水炉では蒸気発生器伝熱管の損傷によるタービン側への放射能漏れを中心とした小規模な事故やトラブルで頻繁に停止したため、駆動率は40%に留まった。 さらに1968年5月、アメリカの[[原子力潜水艦]]「シーソードフィッシュ号」が停泊中の佐世保港で高い放射能が検出されて全国的に報道され、原子力潜水艦の放射能もれではないかと疑われたが、調査委員会は原因を不明と結論する[[佐世保異常放射能事件]]も発生した。 最初は歓迎されていた原子炉の安全性が疑われはじめ、原発反対の住民運動が起こり、候補地の変更を余儀なくされることもあった。 1970年代には反対運動がますます強まり、原発の反対運動による計画の遅れが課題となった。 原子力船むつも当初の定係港候補だった[[横浜市]]が受け入れを拒否したため、青森県のむつ市に変更された上、むつ市でも漁業補償問題がこじれて、地元の漁業団体の反対を受けることとなった。 電力需要の上昇と、原油の高騰および原発立地の問題を解決するために、政府は1974年2月に、発電量に応じて発電事業者に課税し、発電所を受け入れた自治体への地方交付金とする、[[電源三法]](電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法)の法案を提出し、同6月に国会で可決・成立させた。 原子力発電の交付金は火力・水力より2倍以上の交付金が支給されるため、電源三法は原発立地促進の目的だったとされている。 ただし結果的には新候補地確保よりも、既存地における地元自治体への迷惑料として機能したとされている<ref name="Y142">吉岡斉『原子力の社会史』p(1999年、朝日新聞社)p.142-p.154</ref><ref name="原子力のあゆみ60-70" />。
 
=== 1980~1990年代 ===
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#''わが国将来のエネルギー供給その他のために原子力の平和的な利用を行うものとする。''
#''前項の目的に資するため,小型実験用原子炉を築造することを目標として,これに関連する調査研究および技術の確立等を行うものとする。''
との方針が定められる<ref>原子力白書(1956) 第1章 2より引用</ref>。
翌1955年12月19日、原子力の研究、開発、平和利用および将来のエネルギー源の確保などを目的として、[[原子力基本法]]が制定。1956年1月1日、内閣府[[原子力委員会]]が設置された<ref>[http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/index.htm 内閣府原子力委員会 原子力委員会の役割]</ref>。
 
当時は軍事的な意味もあって世界的に「[[プルトニウム]]の増殖」が期待されていた<ref name = "TAKAGI1997">高木仁三郎日本のプルトニウム政策ともんじゅ事故」(1997)』(1997年、七つ森書館)</ref>。アメリカでは1951年に原子力発電が開始されている。
*1955年、[[人形峠]]でウラン鉱床が発見される。
*1956年、国産のウラン燃料生産を目的として特殊法人[[原子燃料公社]]発足
*1956年、国産原子炉の開発を目的として特殊法人[[日本原子力研究所]]発足
*1957年、日本における商用原子炉の開発・運営を目的として、九電力会社および、[[政府電源開発]]の出資で、特殊法人[[日本原子力発電]]が発足
 
=== 1960年代 ===
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=== 2010年代 ===
*2011年3月11日 - [[東京電力]][[福島第一原子力発電所]]の1号炉~4号炉が電源喪失状態となり、レベル7に相当する大規模な放射能もれ事故を起こす。 この事故は日本国内と世界中に原子力発電の政策に影響を与えるものとなった。 {{Main | 福島第一原子力発電所事故}}
 
== 脚注 ==
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
*参考文献 『原子力のあゆみ』原子力のあゆみ50年代 日本原子力産業会議 ISBN)ISBN 4-88911-020-8-C0002
* 高木仁三郎 「日本のプルトニウム計画ともんじゅ事故」(1997) - 『高木仁三郎著作集 4 プルトーンの火』 (2001)
*高木仁三郎『日本のプルトニウム政策ともんじゅ事故』(1997年、七つ森書館)
*『高木仁三郎著作集 4 プルトーンの火』(2001年、七つ森書館)
* {{Cite web
| title = 昭和31年版 原子力白書 | url = http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1956/index.htm
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** [[原子力発電#日本]]
* [[原子力事故]]
 
== 脚注出典 ==
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== 注釈 ==