「チェコスロバキア亡命政府」の版間の差分

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模様砂漠2 (会話 | 投稿記録)
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1941年7月、ベネシュはヤークシュらズデーテン・ドイツ社会民主党に「チェコスロバキア共和国」に賛成するか否かという条件を突きつけた。この背後にはアメリカやソ連がミュンヘン以前への復帰を支持しているということがあり、1942年8月5日にはイギリスがミュンヘン協定の無効と戦後のチェコスロバキア復活を宣言した<ref>相馬(2010-12:251-253)</ref>。お墨付きを得たベネシュはヤークシュらと関係を絶ち、彼らの状況はさらに悪化した。
 
== 中欧ポーランド=チェコスロバキア連邦構想 ==
ベネシュは1939年10月に[[ポーランド亡命政府]]の[[ヴワディスワフ・シコルスキ]]首相と会談し、対チェコスロバキア政策で強硬だった戦前とは異なる感触を得た。11月に再度ベネシュとシコルスキは会談し、チェコスロバキア・ポーランドを中心とする[[連邦]]を中欧に成立させることで合意した<ref>広瀬(1987:115)</ref>。1940年3月には連邦成立に向けた共同宣言を行っている。しかしイギリスによるベネシュ政権承認と[[独ソ戦]]勃発は、チェコスロバキアの国際的地位を高め、ポーランドに対してミュンヘン協定で割譲した[[チェスキー・チェシーン]]の返還を要求するなど強硬な態度を取るようになった。シコルスキはチェシーン問題を棚上げして連邦成立を優先しようとし、1942年1月19日には第二回共同宣言が取り決められた。しかしベネシュはこの宣言を評価しないなど、次第に両国間の溝は深まっていった<ref>広瀬(1987:116)</ref>。
 
連邦構想破綻のきっかけは第二回宣言が行われた1942年1月、ポーランド外相[[エドワルド・ラチンスキ]]([[:en:Edward Bernard Raczyński]])が連邦に[[バルト諸国占領|バルト侵攻]]によって[[ソビエト連邦]]が支配下に置いていた[[リトアニア]]を加えるべきと発言したことであった。ポーランドは連邦構想によって[[ソビエト連邦]]との国境問題を有利に導こうとしていたが、対ソ接近を意図していたベネシュにとってソ連との関係悪化は歓迎できない事態であった<ref>広瀬(1987:117)</ref>。ベネシュはリトアニア問題での譲歩をポーランドに勧告したが、リトアニア喪失を許容できないソ連は中欧連邦反対に方針転換した。7月16日にソ連は連邦反対の意向を明確に伝達し、ベネシュも連邦構想に消極的となった。その後[[カティンの森事件]]などによるポーランド・ソ連関係の悪化により、連邦構想は自然消滅した。
 
== 対ソ接近 ==
1942年12月から亡命政府は積極的にソ連との相互援助条約成立を模索し始め、1943年4月に交渉が開始された。しかしイギリスはこの条約がポーランドの立場を悪くすること、戦時中の二国間同盟樹立を自粛するという英ソ合意に反するとして猛反発し、条約締結に反対した<ref>伊東(1978:149-150)</ref>。亡命政府はイギリスとも同様の条約を結ぶことで反発を和らげようとしたが、イギリスの反応も悪く、ソ連も対英条約締結を許さなかった<ref>伊東(1978:150)</ref>。イギリスとソ連の板挟みとなった亡命政府は進退窮まり、英ソ間の交渉に任せざるを得なくなった。
 
しかし、チェコスロバキア=ソ連相互援助条約が議題となった1943年10月の[[モスクワ会談 (1943年)|モスクワ会談]]([[:en:Moscow Conference (1943)]])では、イギリス外相[[アンソニー・イーデン]]は条約締結にあっさり同意した。この態度変更にはアメリカがこの条約締結に反対する意図がないことが明らかになったことなどが理由であると見られている<ref>伊東(1980:166-167)</ref>。12月にベネシュはモスクワを訪問し、ソ連=チェコスロバキア友好協力相互援助条約が締結された。
 
== 抵抗運動 ==