削除された内容 追加された内容
少し修正
少し修正
1行目:
[[ファイル:Kukai2.jpg|thumb|right|180px|[[空海]](三筆の[[領袖]]<ref name="kanda21">神田喜一郎 p.21</ref>)]]
'''三筆'''(さんぴつ)とは、[[日本の書道史]]上の[[書家|能書]]のうちで最もすぐれた3人の並称であり、[[平安時代]]初期の[[空海]]・[[橘逸勢]]・[[嵯峨天皇]]の3人を[[嚆矢]]とする<ref name="haruna106">春名好重 pp.106-107</ref>。その他、三筆と尊称される能書は以下のとおりであるが、単に三筆では前述の3人を指す。
 
* '''[[#世尊寺流の三筆|世尊寺流の三筆]]'''([[藤原行成]]・[[世尊寺行能]]・[[世尊寺行尹]])<ref name="haruna106"/>
42行目:
平安時代初期は[[遣唐使]]により[[中華文化|中国文化]]が直接日本に招来し、当時中国で流行していた[[東晋|東晋時代]]の[[王羲之]]たちの[[書法]]や[[唐|唐人]]の[[書跡]]などが伝えられた。これらは宮廷社会で愛好され、学習されたことから[[書道用語一覧#晋唐の書風|晋唐の書風]]が流行し、嵯峨天皇も唐風を好み、最澄・空海・橘逸勢らとともに晋唐の書に範をとった<ref name="murakami20">村上翠亭 pp..20-22</ref><ref name="yamauchi52">山内常正 pp..52-54</ref>。
 
[[弘仁]]9年(818年)、嵯峨天皇は[[大内裏]]の[[扁額|門額]]を書き直すことを考え、自らは東の三門(陽明門・待賢門・郁芳門)を書き、南の三門(皇嘉門・朱雀門・美福門)を空海、北の三門(安嘉門・偉&#x9373;門・達智門)を橘逸勢に書かせた。そして、この門額を書いた3人を平安時代初期第一の能書としてあがめるようになり、江戸時代中期ごろから'''三筆'''と尊称されるようになった。三筆は晋唐の書の模倣だけに止まらず、唐風を日本化しようとする気魄ある書を遺した。特に空海は三筆の領袖というべき人物であり、後世に及ぼした影響は大きく、日本書道史上最大の存在といっても過言ではない。その空海の書を祖とした[[日本の書流|書流]]は[[大師流]]と呼ばれる<ref name="kanda21"/><ref name="murakami20"/><ref name="yamauchi52"/>。
 
=== 世尊寺流の三筆 ===
52行目:
平安時代中期、唐の衰頽にともない遣唐使が廃止され、[[国風文化]]の確立によって[[仮名 (文字)|仮名]]が誕生した。そして、[[漢字]]は仮名に調和させるため、中国書法とは趣を異にした日本的な書法に変化、つまり[[和様]]化された。その和様[[書道]]の開祖は[[小野道風]]、完成者は藤原行成といわれる。
 
行成は道風の書を受け継ぎ、洗練を重ねて独自の書の世界を展開し、[[一条天皇|一条朝]]から[[白河天皇|白河]]・[[鳥羽天皇|鳥羽朝]]までの130&#x301C;140年間は行成の書風が一世を風靡した<ref>これについて[[尊円法親王]]は『[[入木抄]]』に、「道風以後、又各々野跡の風也。行成卿は道風があとを写といへども、聊、又わが様を書いたり、其後は一条院の御代よりこのかた白河・鳥羽の御代まで、能書も非能書も皆行成卿が風也。」と記録している(小松茂美(書流全史) p.182)。</ref>。その書風は、後世、[[世尊寺流]]と呼ばれ、和様書道において最も根幹的な役目を果たした流派となり、後の[[法性寺流]]、[[持明院流]]、[[御家流]]を生んでいる<ref name="yamauchi52"/><ref>名児耶明(年表) p.27</ref><ref>藤原鶴来 p.195</ref><ref name="jiten151">二玄社編「書道辞典」 p.151</ref>。
 
行成の代表作『[[白楽天詩巻]]』は、道風の重厚鈍重さと、[[藤原佐理|佐理]]の極端な抑揚法を取り去り、中国風を完全に消し去っている。それは平衡がとれた和様の書の基準的な書きぶりに至っており、[[日本の書道史#女手|女手]]の『[[三色紙#寸松庵色紙|寸松庵色紙]]』とともに日本書道史上の頂点に位置する<ref name="jiten151"/><ref>石川九楊 p.135</ref><ref>小松茂美(書流全史) pp..181-182</ref>。
67行目:
 
; 世尊寺家の終焉
しかし、その後の[[享禄]]5年(1532年)、第17代・[[世尊寺行季|行季]](ゆきすえ)のとき、500年以上続いた世尊寺家は後嗣なく断絶した。[[後奈良天皇]]は深くこれを惜しみ、第16代・[[世尊寺行高|行高]](ゆきたか)から相伝を受けた[[持明院基春]]に後を継がせたが、その後は世尊寺流といわず、[[持明院流]]といった。世尊寺流は書道の正統的な一流として極めて権威ある存在であったが、書道的に価値の高い作品を遺したのは、第6代・[[藤原伊行|伊行]]までで、その後は伝統の形骸を守ったに過ぎない感がある<ref name="jiten151"/><ref name="iijima422"/><ref>村上翠亭 pp..118-119</ref><ref>藤原鶴来 pp..304-305</ref>。
 
=== 寛永の三筆 ===
101行目:
 
=== 明治の三筆 ===
明治時代初期は江戸時代の延長でしかなく、唐様と和様が行われたが、実権者の多くが[[漢学]]の素養があったことからだんだんと唐様の書風に傾いていった。そして

明治13年(1880年)、[[清|清国]]の[[楊守敬]]が[[漢]][[魏 (三国)|魏]][[六朝]]の[[碑帖]]を携えて来日し、[[元 (王朝)|元]]・[[明]]の書法が全盛であった日本の[[書道界]]に大きな衝撃を与えた。そして、この影響を受けた[[巌谷一六]]・[[松田雪柯]]・[[日下部鳴鶴]]と、直接清国に渡って書を学んだ[[中林梧竹]]を中心に[[日本の書道史#六朝書道|六朝書道]]が盛んになった。平安時代初期と同様に大陸の影響を大きく受けたのである。
 
この六朝書道を牽引した日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六の3人を[[書道界]]では'''明治の三筆'''と呼ぶ。特に鳴鶴は多くの門人を擁していたため、これらの書風は瞬く間に全国へと広まった。これにともない漢字は和様が衰頽し、唐様は六朝書によって革新され、鳴鶴と[[西川春洞]]を中心に今日の漢字書道界の基礎が造られたのである<ref name="ishikawa213"/><ref name="ueda196"/><ref name="yamauchi58"/><ref>石井健 p.167</ref>。