「富井政章」の版間の差分

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{{quotation|若し此の如き講義録体の錯雑した法典を実施すれば世間何処の学校も皆法典の弁別、順序、定義等に括られて仕まつて此法律を解くと云ふことになると思ひます……必ず此弊害が生ずると云ふことは[[フランス|仏蘭西]]が証拠である、仏蘭西の法律学と云ふものは此数十箇年全く此卑い[[フランス註釈学派|註釈学問]]となつて居る……之に反して[[ドイツ|独逸]]が近年著しく進歩した訳は諸君の御承知の如く学問を奨励したと云ふ結果であります<ref>前掲・富井男爵追悼集162頁</ref>……}}
 
富井は、民法起草においても、学者的立場から慎重をもって旨とし、[[法実証主義]]・ドイツ法一辺倒の立場に立ち、実務的立場から迅速をもって旨とし、ドイツ法の立場を基礎としつつも[[自然法論]]・フランス法にも親和的な立場に立つ梅としばしば対立し<ref>[[仁井田益太郎]]=[[穂積重遠]]=[[平野義太郎]]「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」[[法律時報]]10巻7号15頁</ref>、穂積陳重と共に日本のドイツ法学導入の先駆者とされる。もっとも、旧民法起草当時日本にドイツ法の思想はほとんど入ってきておらず、また富井自身も梅、穂積と異なりドイツに留学したことはなかったため、民法のできる前は特にドイツ法の思想を主張したことは無かった。しかし、富井付きの起草補助委員だった[[仁井田益太郎]]が[[ドイツ語]]に精通していたため、彼の手になる[[ドイツ民法]]草案第一・第二の翻訳を通じてよくドイツ法の思想を消化し、「近世法典中の完璧とも称すへきもの」<ref>富井政章『民法原論第一巻総論』序5頁</ref>であるとしてほとんどドイツ法一点張りで民法を作ろうという勢いであったとされ(仁井田の回想による)、日本民法学におけるドイツ法的解釈の端緒を切り拓いた<ref>仁井田ほか・法律時報10巻7号24頁</ref>。なお、法典調査会においては[[ベルンハルト・ヴィントシャイト|ヴィントシャイト]]や[[ハインリヒ・デルンブルヒ|デルンブルヒ]]の体系書にも言及しており、これらの書のフランス語訳版をも読んでいたものと推測されている<ref>仁井田ほか・法律時報10巻7号24頁、ハインリヒ・デルンブルヒ著・坂本一郎=池田龍一=津軽英麿共訳『獨逸新民法論上巻』序文(富井執筆)(早稲田大学出版部、1911年)、[[平井宜雄]]ほか『新版注釈民法3総則』27頁</ref>。
 
他方、国の実状を直視し、沿革的・比較法的研究を踏まえつつも法の不備を認め<ref>法の不備を認めるものとして、特に富井著『民法原論第一巻総論』71頁、『民法原論第三巻債権総論上』85頁</ref>、要点を簡明に明らかにして裁判官の運用にゆだねるべきとするのが、法典論争からの一貫した主張であり、主著『民法原論』に現れたように、それが学風となっている<ref>大村・前掲法教32頁</ref>。
 
長年にわたり東京帝大の民法講座を担当し、後に[[鳩山秀夫]]に引き継がれることになる東大民法学の基盤を確立。理路整然、簡にして要を得た名講義であったと伝えられる<ref>前掲・富井男爵追悼集162頁</ref>
 
留学時代の猛勉強から病弱であったが、健康に気を使ったため結果的に起草三博士の中で最も長命であった<ref>前掲・富井男爵追悼集46、112-114頁</ref>。しかし、慎重を期する性格のため、梅が民法典全分野についての著書『民法要義』を僅か年ほどの内に完したのに対し、富井の民法原論はついに債権総論の上巻までしか日の目を見ることはなかった<ref>財産法分野に関しては、非公式の講義録によって学説の全貌をうかがい知ることができる。</ref>。
 
晩年には[[穂積重遠]]らと共に民法改正([[親族法]]・[[相続法]])の改正にも着手したが、[[第二次世界大戦|戦争]]によって頓挫し、これは後に[[中川善之助]]・[[我妻栄]]らに引き継がれることになる。