「フィリベルト2世・ディ・サヴォイア」の版間の差分

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[[file:MR Brou 04.jpg|right|thumb|200px|ブール=ガン=ブレスのブルー修道院にあるフィリベルト2世像]]
'''フィリベルト2世・ディ・サヴォイア'''(Filiberto II di Savoia, [[1480年]][[4月10日]][[ポン・ダン]] - [[1504年]][[9月10日]]ポン・ダン)は、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]]、[[ピエモンテ]]公、[[アオスタ]]伯、[[モリエンヌ]]伯、[[ニース]]伯、[[キプロス王国|キプロス]]王、[[エルサレム王国|エルサレム]]王(在位:[[1497年]] - [[1504年]])。フランス語名'''フィリベール2世・ド・サヴォワ'''(Philibert II de Savoie)。[[フィリッポ2世・ディ・サヴォイア|フィリッポ2世]]と最初の妃マルゲリータ・ディ・ボルボーネ([[ブルボン公]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]の娘)の子。同母姉に[[フランス王国|フランス]]王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の母[[ルイーズ・ド・サヴォワ]]がいる。 '''イル・ベッロ'''(il Bello:美男)の異名を持ち、ハンサムで武芸に秀でた人物であったという。
 
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フィリベルト2世自身は政治にあまり関心がなかったが、妻マルゲリータが政治に介入し、暴政を行っていたフィリベルトの庶出の兄ルネ・バタール(フランス語名:イタリア語名レナート・イル・バスタルド - 「バタール」「バスタルド」は庶子の意味)を法的根拠に基づいて即刻解任し、国外追放した。そして小規模ながらも国の経済を回復させ、サヴォイア公国を苦境から救った。夫婦仲は極めて良かったが、結婚3年目の1504年、フィリベルトは狩猟大会の折りに飲んだ生水にあたって死亡した。2人の妃のどちらとの間にも子供がなく、公位は異母弟[[カルロ3世・ディ・サヴォイア|カルロ3世]]が継いだ。
 
フィリベルト2世はマルゲリータが建設させた[[ブール・カ=ガブレス]]の霊廟に埋葬された。3人目の夫であったフィリベルト2世を喪った後、マルゲリータは死ぬまで独身を貫いた。
 
{{サヴォイア家|[[サヴォイア公国|サヴォイア公]]|[[1497年]] - [[1504年]]}}