「加藤時次郎」の版間の差分

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明治34年([[1901年]])、請われて東京市会議員補欠選挙に出馬して落選、この選挙をきっかけに[[矢野竜渓]]・[[片山潜]]・[[幸徳秋水]]らと関係を持ち、矢野の[[社会問題講究会]]や堺・幸徳の[[社会主義研究会]]に参加した。その後、幸徳が[[堺利彦]]とともに[[平民新聞]]や[[日本社会党 (1906年)|日本社会党]]を結成した時にはその有力な資金提供者になるとともに、同活動を支援する「直行団」や消費組合「共同会」を結成した。だが、こうした活動が当局から睨まれたことから、明治39年([[1906年]])ヨーロッパの医療事情視察を名目に日本を離れた。途中[[シュトゥットガルト]]で開催中であった[[第二インターナショナル]]に日本代表として参加、現実的な社会改良主義の必要性を痛感して帰国した。明治41年([[1908年]])の帰国後も幸徳らとの関係は続いたが、幸徳の直接行動論には同調しなかったために[[幸徳事件|大逆事件]]においても罪を問われることは無かった。
 
大逆事件後、政府による[[済生会]]の構想が明らかになると、加藤は当時の[[医師会]]主導で決定された高額な[[診療報酬]]に基づく医療ではなく、もっと安価で低所得者でも医療が受けられる仕組を民間でも作るべきだと考え、かつて旅行先で議論を行い、立場は違うものの社会改良の必要性については意見が一致した[[王子製紙 (初代)|王子製紙]]の元専務[[鈴木梅四郎]]を訪ねて相談を持ちかけた。鈴木も加藤の計画によって安価でかつ採算性の取れる医療が可能であると考えて協力を約束、明治44年([[1911年]])社団法人実費診療所を開設して、鈴木が理事長、加藤が医務長となり、第一号医院を加藤病院内に開設した。
 
加藤は大正3年([[1914年]])に『生活の力』(後に『平民』)を創刊、翌年には自己の病院を改組して平民病院を開設して実費診療所の理念拡大に努めるとともに、「平民食堂」「平民法律所」など中低所得者に対する社会事業に尽くした。また、晩年は[[普選運動]]や[[産児制限運動]]でも活躍した。